衣笠城 (きぬがさじょう) (愛洲城) (市の史跡)
最寄地 和歌山県田辺市下三栖807 2016.4.26
衣笠城 (きぬがさじょう) (愛洲城) (市の史跡)
最寄地 和歌山県田辺市下三栖807 2016.4.26
登城ルート(緑線は車道)
頂上西側無線塔
腰郭
城跡碑・説明板
石垣
衣笠城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高200m】
【案内・感想】 県道216号線を左折(地図)して表記番地前より北に300行き分岐を右折、1.3km登ると無線塔があり、建物北に駐車スペースがある[マップコード184 291 368*47]。但し、この間は道幅は2mほどですれ違う場所は少なく、注意を要する。
右に200m行くと、標高234.5m比高約200mの衣笠山頂上に出、東に腰郭、西に主郭がある。
主郭の北側に土塁があり、中央に「衣笠城跡」の石碑と説明板が建てられている。 主郭西側に石垣、堀切が残る。
平成五年(1993年)7月8日、田辺市の史跡に指定された。
【歴史】 江戸時代の『紀伊続風土記』に「文永の頃愛洲八郎源経信の居城なりといふ」と記されている。文永年間(1264~74年)は鎌倉時代中期にあたる。
宝治元年(1247年)の宝治合戦以降に職を辞した経信が晩年に南部館から居城を移し、以降、紀伊愛洲氏の居城となった。
南北朝時代には愛洲氏は南朝方につき、北朝方の日高の湯川氏などと争ったが、南朝方が衰亡すると、勢力を失った。
応仁の乱(1467~77年)が起こるころ、当地でも中央の諸有力武将につながる群雄が抗争を繰り返し、長禄元年(1457年)から翌年にかけて、衣笠城を中心とする攻防戦があったと伝えられている。
戦国時代終わりごろには、城主小牧氏が千光寺の勢力と争い、落城したと云われている。『田辺市教育委員会説明板』より。