岩掛城 (いわかけじょう) (山田城)
最寄地 奈良県天理市山田町1548 2016.4.24
岩掛城 (いわかけじょう) (山田城)
最寄地 奈良県天理市山田町1548 2016.4.24
登城ルート
道安遺跡の碑
登り口
大空堀
主郭・土塁
東下段の2郭
3郭
岩掛城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 山田公民館(表記番地)に駐車して、公民館西の道を北に向かい、民家の横に登り口[マップコード266 727 802*87](地図)がある。
沢に沿って北に登り、砂防ダムを過ぎて左(西)に登ると堀道となり大空堀に至る。左手に登ると比高約50mの主郭があり土塁がわずかに見て取れる。南に一段づつ下がって、2つの郭がある。
また、公民館より、布目川の西側の道を少し行くと、落石防護ネットの切れ目に、「道安遺跡」の石碑が4mほど上の岩場に建てられ、石段の前に「岩掛城跡」の説明板が建てられている(地図) 。
更に南に行くと、山田道安父子の墓碑と位牌を安置した菩提所の蔵輪寺(天理市山田町1139−1)がある。
【歴史】 室町時代山田氏が築いた山城である。山田氏は応仁の乱後、東山中の豪族を従えるまでに成長した。戦国時代、山田順貞(としさだ・後に入道し道安)の時代に東隣、馬場に新築した馬場城を本城にし、ここを支城とした。
山田道安(どうあん)は、永禄十年(1576年)松永久秀と三好三人衆の戦いで、焼けた東大寺大仏を銅板で修復し大仏殿再建に尽力した。
しかし、志なかば天正三年(1573年)に没し、蔵輪寺に葬られた。『大和高原文化の会』説明板より。