高田城 (たかだじょう) (豊後高田城・柴崎城)
所在地 大分県豊後高田市玉津1053 2015.5.13
高田城 (たかだじょう) (豊後高田城・柴崎城)
所在地 大分県豊後高田市玉津1053 2015.5.13
桂陽小学校
小学校内土塁
北東の内堀
中央公民館にある城跡標柱
石垣・石段
高田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道29号線より北に行った市立桂陽小学校(表記番地)北東に土塁・水堀が一部残っている。
小学校の南にある中央公民館(玉津987)の駐車場が利用でき[マップコード459 518 073*67]、そこに城跡標柱が建てられ、南東に高田御役所(陣屋)の石垣・石段が残っている(地図)。
本丸は桂陽小学校、中央公民館敷地となり、二の丸は現在の堀より東から北にかけての宅地となっている。
【歴史】 江戸中後期のものと推定される「豊後国高田芝崎絵図」には、「古城/本丸/二丸/三丸」と記され、かつてこの地に城郭が営まれ、その本丸、二ノ丸、三ノ丸と伝承される地域があったことが分かる。
本丸部分には「此坪数六千九百八十八坪/八十三間四尺四方也」、二ノ丸部分に「此坪数三万三千五百五十坪/百五十三間三尺四方」、本丸土手部分に「土居高三間高下」、二ノ丸土手部分に「土手三間少高下有」、堀部分に「よこ(横=幅)十間/深三間」、三ノ丸部分に「本丸、二丸、三丸地形平」と注記される。
また、高田川に「此川幅七十四間/舩懸深五尺、塩道七八尺ニ成」とある。なお、近世の1間は藩によって6尺から6尺5寸まで様々であったが、そのうちどれが豊後高田領において使われていたか、詳らかでない。
建久七年(1196年)に、源頼朝の庶子・大友能直に伴って豊後に下向した家臣・高田掃部助(かもんのすけ)重貞によって築かれたとされる。
大友氏が改易された後の文禄二年(1593年)に、竹中重利が封じられ、城を拡張した。その後高田城は、細川氏の城となった。
寛永十六年(1639年)には、松平重直が豊前国龍王の陣屋から移って、この城を増修築して居城とし、高田藩が成立した。
重直が正保二年(1645年)に豊後杵築に転封となると、この城は廃城とされたが、寛文九年(1669年)に肥前島原に入封した松平忠房が、豊前・豊後の飛地支配のため、旧本丸に豊州陣屋を設けた。