黒瀬城 (くろせじょう)
所在地 愛媛県西予市宇和町卯之町 2020.2.8 2021.3.8
黒瀬城 (くろせじょう)
所在地 愛媛県西予市宇和町卯之町 2020.2.8 2021.3.8
登城ルート(緑線は車道)
登り口・説明板(読めない)
二の郭から見た主郭切岸
主郭
主郭西側
西側の堀切
西園寺公広御廟
黒瀬城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高110m】
【感想】 宇和町卯之町の標高341mの山頂に築かれている。東から西に段郭、3郭、2郭、付郭 主郭と配置された連郭式の城構えとなっている。
土塁、堀切、井戸などよく保存されている。
【案内】 県道344号線より肱川左岸の道を南に行き、宇和運動公園の駐車場が利用できる[マップコード176 661 521*32]。その先に登り口があり説明板(読めない)が建てられている(地図)。
北東約1kmにある光教寺(西予市宇和町卯之町3丁目100)の本堂東の霊安塔から階段を登った所に西園寺公広卿御廟があり、脇に辞世の歌碑が建てられている(地図)。
歌碑には「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」と刻まれている。
【歴史】 天文年間(1532~55年)、松葉城主・西園寺実充が黒瀬城を築き、松葉城より移転したと云われる。
当城は元亀三年(1572年)に豊後大友氏に攻撃され、天正九年(1581年)には土佐長宗我部氏によって城下町を焼かれ、天正十二年(1584年)には城主・西園寺公広が長宗我部元親に臣従している。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で、公広は小早川隆景に降伏し、在城を許されて九州征伐に参加した。
天正十五年(1587年)に戸田勝隆が伊予に移封されると、西園寺公広は下城して願成寺に隠棲したが、同年十二月一日(12月30日)に勝隆により謀殺された。その後、岩城少右衛門が城代となった。