上村城 (うえむらじょう) (麓城・亀城) (町の史跡)
最寄地 熊本県球磨郡あさぎり町上南3276−1 2020.9.21
上村城 (うえむらじょう) (麓城・亀城) (町の史跡)
最寄地 熊本県球磨郡あさぎり町上南3276−1 2020.9.21
登城ルート(緑線は車道)
上村氏墓地
谷水薬師山門
虎口
空堀・右に北の郭
北の郭
南の郭
畝状竪堀
南尾根の2重堀切
上村城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高50m】
【感想】 人吉盆地に向けて南から伸びた標高約274mの尾根先端に築かれている。
空堀で隔てて南北2つの広い郭からなり、それぞれに1から3段の郭を東西に配置してある。
よく整備され見通しが効き、南尾根の深い2重堀切やその近くの畝状竪堀など見どころは多い。
【案内】 県道260号線より約750m南下し表記番地を過ぎた左に谷水薬師寺の駐車場がある[マップコード333 125 112*27]。
すぐ南に上村氏墓地があり、左に下ってゆくと薬師寺山門、本堂があり、右手から遊歩道(10分500m)が設けられている。
空堀を挟んで北に2段の郭があり、南に細長い主郭の東と西に段郭がある。西側は3段となり、南に土塁が見られ、深い2重堀切がある。また南東側には畝状竪堀群がある。
昭和四十六年(1971年)7月1日、あさぎり町の史跡に指定された。
【歴史】 南北朝時代(1334~92年)球磨郡は、上相良家(多良木)と下相良家(人吉)が南朝と北朝方に分かれ、周りの豪族を引き込み互いに争った。
当時の上村は、三池兵庫助妻女の支配地であったが、正平年中(1347~70年)には、上村三十五町・80石が人吉の相良定頼の領分となったことが『大日本古文書』に記録されている。
築城時期ははっきりしないが、南北朝時代に相良氏の領地となったことで、人吉城の支城として使用されたと考えられ、城主は相良一族を配置したと思われる。上村氏は相良長頼の4男・四郎頼村を初代とし代々続いた。
室町時代、上村家11代三河守直頼が城主となり、12代頼簾(よりかど:相良家13代長毎(ながつね)の弟)、13代頼興と続いた。
頼興の嫡男・藤五郎頼重(のちの相良晴広)が相良宗家17代を継ぐことになり、弘治三年(1557年)六月14代左衛門大夫頼孝は、弟の上村頼堅(豊福城主)、稲留長蔵(岡本城主)と共に、宗家の相良義陽(よしひ:晴広の嫡男)に対して反乱を企てたことで上村家は没落し、頼孝は菱刈に逃亡した。
その後上村城は犬童美作頼安入道休矣(きゅうい:相良清兵衛の父)の居城となった。