高崎山城 (たかさきさんじょう)
最寄地 大分県由布市挾間町七蔵司910-4 2019.3.7
高崎山城 (たかさきさんじょう)
最寄地 大分県由布市挾間町七蔵司910-4 2019.3.7
登城ルート(緑線は車道)
駐車場
防塁(石塁跡)
東側堀切
主郭
土塁の石積
西尾根の堀切
高崎山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高210m(駐車場より)】
【感想】 大分市高崎の標高628.4mの高崎山山頂に広い主郭があり、南東の斜面に曲輪が多数設けられている。曲輪の西には石積みの長大な防塁(石は撤去されている)が見られる。
主郭には土塁が廻り、石積も見られ、「大友著景の墓」がある。主郭と2郭の間には堀切があり、主郭北西に郭や堀切がある。
期待しないで登ったが、案内標識も各所に設けられ、意外と堀切や土塁が残っていた。
【案内】 県道696号線より清心寺(表記番地)方面に向かい、2.7km登ると清心寺の東の三叉路に着く。ここへは県道51号線からも約1.3kmで着く。そこを直進し、約1.3㎞登ってゆくと南中腹の駐車場に着く[マップコード46 287 509*73](地図)。
駐車場より約1.2km緩やかな大手道を登ると、東側に着き南東斜面には畝状竪堀群がある。
尾根には多数の郭があり、更に800m、左側の防塁の大手道を登ると主郭に達する。
【歴史】 高崎山城は、伝説によれば、平安時代末期に安倍宗任によって築城されたという。
鎌倉時代初めに大友氏が豊後に下向した際には、在地武士の大神氏一族がこの城を拠点に激しく抵抗したとされる。
正平四年/貞和五年(1349年)と正平十三年/延文三年(1358年)に大友氏第8代当主大友氏時によって本格的に整備された。
南北朝時代には九州における北朝方の拠点として、南朝方の菊池氏との数多の戦いの舞台となった。
建徳二年/応安四年(1371年)七月には、北朝方の九州探題今川了俊の命により、嫡男の今川貞臣、田原氏能がこの城に入城した。この年の八月から翌年正月にかけて南朝方の菊池武光・武政勢と攻防を繰り広げた。
永正十五年(1518年)、第20代当主大友義鑑に対して叛旗を翻した朽網親満はこの城に立て籠もったが、佐伯氏らに追われて玖珠郡に逃走した。
天正十四年(1586年)の島津氏の豊後侵の際には、第22代当主大友義統は戸次川の戦いに敗れると、退却の途上でこの城に入城し、さらに豊前龍王城へと敗走した。
この城は文禄二年(1593年)の大友氏改易後に廃城とされた。その石材は、福原直高による府内城築城に用いられたという。