守山城 (もりやまじょう)
最寄地 長崎県雲仙市吾妻町古城名409 2019.12.10
守山城 (もりやまじょう)
最寄地 長崎県雲仙市吾妻町古城名409 2019.12.10
東側切岸
公園入口・稲荷大明神
公園南東側
段・四阿
守山一族終焉之碑
守山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高10m】
【感想】 吾妻町古城名の比高10m程の台地に築かれており、守山城址公園となっている。
南北2段になっており、南端に土塁が残っている。土塁の前に「守山一族終焉之碑」と説明板が建てられている。
【案内】 雲仙市吾妻町古城名の表記番地東の台地にあり、守山城址公園駐車場がある[マップコード325 009 482*30]。稲荷神社左から登って行ける。
【歴史】 室町時代初期(1400年頃)在地土豪・守山氏により築城され、代々の居城となった。
有馬氏の外城を守る重臣として活躍していたが、諫早の西郷氏や神代氏(こうじろし)と行動を共にすることも多く、有馬氏に叛旗を翻すこともあった。
佐賀の龍造氏が勢力を拡大し島原に侵攻すると、神代氏と共に龍造氏の軍門に降った。
天正十二年(1584年)沖田畷(島原)の戦いにおいて、龍造氏が島津・有馬の連合軍に敗れてから、暫くの間、守山城は島津軍に接収され、その前進基地として島津の将が加番した。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉の島津征伐により再び守山氏の居城となった。
天正十七年(1589年)頃、神代氏と共に有馬軍の謀略にかかり夜襲を受け、この城で一族郎党共に全滅し、廃城となった。