山鹿城 (やまがじょう)
所在地 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿4 2020.9.26
山鹿城 (やまがじょう)
所在地 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿4 2020.9.26
登城ルート
登り口
二の丸
二の丸の山鹿秀遠の石碑
本丸切岸
本丸
南東先端 の白山神社
山鹿城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高35m】
【感想】 遠賀川河口の右岸にある標高約40mの独立丘陵に築かれている。
城山公園となっており、山頂が本丸で神社が祀られ、北西に二の丸が配置されている。尾根の歩道を伝って南東に行くと、白山神社がある。
【案内】 国道495泉「山鹿」交差点より南に行くと、ヨットハーバーがありそこに駐車できる[マップコード68 830 224*68]。
入口から御堂前を通って西の二の丸に歩道が設けられている(地図)。
北西の二の丸に「山鹿兵藤次秀遠之城址」の石碑が建てられている。
【歴史】 天慶年間(938~47年)鎮西奉行・藤原秀郷(俵藤太)の弟・藤次によって築城されたとされる。藤次は姓を山鹿氏に改め、以後、代々山鹿氏の居城となった。
約240年を経て、山鹿兵藤次秀遠が城主のとき、寿永二年(1183年)七月、源氏に追われた平宗盛は幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ち、さらに同年九月に太宰府を逃れた。この時、山鹿秀遠はこの城に安徳天皇一行を迎えた。
元暦元年(1184年)山鹿秀遠は壇ノ浦で平氏と共に運命を共にした。
鎌倉時代には宇都宮家政に山鹿氏の旧領が与えられ、以後は山鹿姓を名乗った。
室町時代には庶流の麻生氏が花尾城で勢力を伸ばし、本家の山鹿氏も支配下に入った。やがて大内氏が北九州方面に進出すると、麻生氏とともに大内氏の麾下に組み込まれた。
戦国時代には麻生氏の出城となり、天正十五年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後は廃城となった。