岡豊城 (おこうじょう) (国の史跡)
所在地 高知県南国市岡豊町八幡1099 2012.9.9 2014.9.13
岡豊城 (おこうじょう) (国の史跡)
所在地 高知県南国市岡豊町八幡1099 2012.9.9 2014.9.13
登城ルート(緑線は車道/青は厩跡曲輪)
三の段
詰の石段
詰・建物跡
詰の石垣
伝厩跡曲輪
岡豊城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道32号線より西に分岐した県道384号より南に500mほど登ったところに、「高知県立歴史民俗資料館」(表記番地)の駐車場がある[マップコード73 345 122*25]。
資料館の南、岡豊山(標高97m)に詰があり、比高約20mの詰には建物跡が表示され、土塁が残っている。詰の手前に石垣、空堀がある。
西側斜面に竪堀が残っている。城の縄張りは、最高所に本丸に当たる詰があり、東に詰下段、南から西にかけて三の段、その下に四の段がある。
200mほど離れた南西側丘陵に伝厩跡曲輪(地図)があり、石碑、展望台が建てられている。
また、城の北東部には岡豊八幡があった。南に国分川が流れる。
昭和六十年(1985年)より平成二年(1990年)にかけて、六次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。
平成二十年(2008年)7月28日、国の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃から土佐へ移住した。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれ、長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われる。
応仁の乱後、永正五年(1508年)土佐七雄の本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により攻められ岡豊城は落城した。この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序(かねつぐ)は自刃した。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正十五年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入った。
岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。
国親の子・元親の代に長宗我部氏は飛躍した。天正二年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定し、この城を拠点に天正十三年(1585年)には四国を統一した。
しかし、同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。
この後、天正十六年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。
しかし、天正十九年(1591年)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで元親の子・盛親は西軍に与したため、改易された。