佐賀城 (さがじょう) (佐嘉城・栄城・沈み城・亀甲城) (県の史跡)(日本100名城89)
所在地 佐賀県佐賀市城内2‐18 2013.6.1 2019.12.9
佐賀城 (さがじょう) (佐嘉城・栄城・沈み城・亀甲城) (県の史跡)(日本100名城89)
所在地 佐賀県佐賀市城内2‐18 2013.6.1 2019.12.9
鯱の門・続櫓
本丸御殿
御殿廊下
本丸土塁
天守台
内堀・南西櫓台
佐賀城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 北側の「城内通り」 に面して「佐賀城公園」駐車場が用意されている[マップコード87 291 169*33] 。
城内通りの南に本丸があり、国の重要文化財「鯱の門及び続櫓」が残り、天保年間建築の「本丸御殿」が平成十六年(2004年年)復元され「佐賀城本丸歴史館」(表記番地)として無料で一般公開されている。
土塁が巡らされ、北西隅に天守台の石垣が残る。約600m四方の堀(東側は埋め立て)が残り、県庁、体育館、佐賀西高、中学校、法務局などが建てられている。
鯱の門と続櫓は、昭和二十八年(1953年)、佐賀県重要文化財に指定され、昭和三十二年(1957年)には国の重要文化財に指定された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(89番)に選定された。
【歴史】 平安時代末期に藤原季喜が龍造寺村の領主になって土着し、その子が龍造寺氏と称し、勢力を伸ばしていった。
永禄十二年(1569年)、大友宗麟は、筑後国高良山の吉見岳城に本陣を置き、佐賀平野の北路から大軍で進攻し、佐賀龍造寺城の周辺は悉く焼かれ、城は窮地に追い込まれた。
隆信は、一度は大友氏と和平したが、元亀元年(1570年)、再び宗麟は大軍で佐賀に攻めて来た。
再度、追い込まれた龍造寺軍は佐賀龍造寺城に籠城した。窮地に追い込まれた龍造寺軍の鍋島信正 (後の佐賀藩祖・鍋島直茂)は、夜襲により今山の陣で大友軍の総大将・大友親貞を討ち取った(今山の戦い)。
その後、龍造寺隆信の子・政家、その子・高房の居城となった。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正十二年(1584年)島原半島の沖田畷の戦いに於いて、島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。
これにより龍造寺氏家臣の鍋島直茂が実権を握った。直茂は蓮池城を居城としたが、江戸幕府政権下で正当に佐賀藩主として認められた後、慶長七年(1602年)佐賀龍造寺城の改修拡張を開始し、次の藩主鍋島勝茂が慶長十六年(1611年)に佐賀城を完成させた。
内堀の幅は80mにも及び、小倉城天守の図面を参考に四層五階の天守も建造された。また、元和の一国一城令でかつての居城・蓮池城は破却された。城は幾度も火災に見舞われた。
特に享保十一年(1726年)には大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半を焼失した。御殿などが享保十三(1728年)に二の丸に完成し、藩政は二の丸を中心に行われた。
天保六年(1835年)の火災では二の丸を焼失し、再び、本丸の再建が行われ天保九年に完成し、政務は本丸に移った。
明治七年(1874年)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起き、佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。この戦闘の際に建造物の大半を失った。
なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。