高田城 (たかだじょう) (勝山城・大総山城) (市の史跡)
所在地 岡山県真庭市勝山 2020.5.8
高田城 (たかだじょう) (勝山城・大総山城) (市の史跡)
所在地 岡山県真庭市勝山 2020.5.8
登城ルート(緑線は車道)
藩政時代の調練場(二の丸)
北東の堀切・竪堀
2郭・説明板
主郭
出丸北の堀切
出丸・中国勝山テレビ放送所
高田城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【感想】 真庭市勝山の標高312mの城山に本丸を置き、北東尾根に2郭、3郭と配置され、堀切がよく残っている。
また、出丸にはテレビ塔が建てられ、北に堀切があり、帯郭や井戸が残っている。
【案内】 太鼓山(本丸)と出丸の間の市道より斜めに登った所に、藩政時代の調練場跡(二の丸)があり野球場となっている。
そこから北東に馬洗場の谷があり、尾根に駐車スペースがある[マップコード387 323 475*06](地図)。
そこから南西に登ると堀切があり、その上に山林となった3郭がある。西側に土塁、堀切が残っている。
遊歩道を登り詰めると四阿のある2の丸があり、切岸の目立つ主郭がある。
一方、出丸は南の山頂にあり、市道の説明板向かいに登り口がある(地図)。
舗装道の20m程先から右に登ってゆくと堀切があり、山頂の「中国勝山テレビ放送所」の鉄塔の建っている所が出丸である。南東側の帯郭に「カンカン井戸」が保存されている。
西麓の藩政時代の三の丸には石積が残っている(地図)。
昭和四十二年(1967年)4月6日、真庭市の史跡に指定された。
【歴史】 文亀元年(1501年)高田荘を本拠とする国人三浦貞連が最初の城主と伝えられている。
その後、貞国・貞久・貞勝・貞広と続いた。その間、尼子氏と毛利氏などの近隣勢力と城の争奪を重ねた。
天文十三年(1544年)、貞連の孫・貞久は尼子晴久麾下の宇山久信に攻められたがこれを撃退している。
天文十七年(1548年)貞久が死去し子の貞勝が当主となる。この機に乗じ宇山久信に再び攻められ一旦は落城する。
しかし、永禄二年(1559年)貞勝は尼子氏が毛利元就に攻められている隙を衝いて高田城を奪還した。
永禄七年(1565年)備中松山城主三村家親は毛利氏の麾下となり高田城を攻め、1ヶ月の攻城戦ののち落城し貞勝は自刃して果てた。
永禄九年(1566年)宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、三浦家臣団は貞久の末弟・貞盛を擁立して高田城の奪還を果たした。しかし、永禄十一年(1568年)再び毛利軍によって落城し貞盛も討ち死にした。
貞勝の兄・貞広は山中幸盛の援軍により、元亀元年(1570年)三度の高田城奪還に成功した。
天正三年(1575年)宇喜多氏は城主・貞広に毛利氏との和議を説き、遂に城は毛利氏に明け渡された。
三浦氏が退去した後は、毛利、宇喜多、小早川、森氏が支城として利用した。その後一旦廃城となった。
明和元年(1764年)勝山藩主として入部した三浦明次が、城山の西麓に藩庁を構え、城山は勝山城と改名され、髙田城本丸の南麓を二の丸、西麓を三の丸として城郭整備を進めた。しかし、財政上整備は未完のまま、10代約100年を経て明治維新を迎えた。