猿掛城 (さるかけじょう)
所在地 岡山県倉敷市真備町妹/小田郡矢掛町横谷 2021.4.9
猿掛城 (さるかけじょう)
所在地 岡山県倉敷市真備町妹/小田郡矢掛町横谷 2021.4.9
登城ルート(緑線は車道)
真備町側登り口・説明板・駐車スペース
六の丸
四の丸・三の丸切岸
二の丸
本丸・土塁
南背後の大堀切
猿掛城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高210m】
【感想】 倉敷市真備町妹と小田郡矢掛町横谷の境界にある標高243mの猿掛山に本丸が置かれ、北尾根に5段の階段状の郭が配置されている。
夫々の郭はよく削平され広く、三の丸には大手門跡が残っている。本丸の南側には土塁、大堀切がよく残っている。
北端には庄実近が隠居したという太夫丸があり、石積みが残っている。
【案内】 国道486号線より小田川の福頼橋を渡り右折した所に大手道の登り口があり、説明板やパンフレットが置かれている[マップコード111 406 188*13]。
さらに800mほど東に行った所にも真備町登り口があり、説明板や道標、駐車スペースがある[マップコード111 407 365*53]。
今回は、真備町登り口から登った。道ははっきりしており要所に道標が多数建てられ安心して登れる。
登り詰めると太夫丸入口に着き大手の道に合流し、南に六の丸、五の丸、四の丸、三の丸、二の丸、一の丸(本丸)と南北に伸びた尾根に階段状に並んでいる。
【歴史】 源平合戦の功により、武蔵七党の児玉党の旗党庄太郎家長は、建久三年(1192年)備中山方庄(山手村)・二万庄・穂田庄・草壁庄の地頭として赴任し、元久二年(1205年)頃、猿掛山に新城を築き、横谷の御土居へ1町歩(1万㎡)の陣屋を設け、貢納を管理した。
天文二年(1533年)猿掛城主・庄為資は備中松山城へ移り備中半国の領主となった。
その際、為資は一族の穂田(庄)実近を猿掛城の城代として置き守らせた。
天文二十二年(1553年)毛利元春の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城の麓の横谷・東三成で激突し合戦となった(猿掛合戦)。
しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌年三村家親の長男・三村元祐が庄為資の養子となり猿掛城主となった。そのため城代の穂田実近は太夫丸を築き退隠した。
元亀二年(1571年)穂田元資が佐井田城攻めで討ち死にし、備中の豪族庄氏15代366年間の幕を閉じた。
その後、天正三年(1575年)備中松山城主・三村元親を討った毛利元就の6男元清が5千貫の領主として猿掛城に入った。
元清の跡を継いだ毛利秀元は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、長府へ去り、慶長九年(1604年)花房志摩守正成が5千石で入城した。
元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。