大矢野城 (おおやのじょう) (中村城) (市の史跡)
最寄地 熊本県上天草市大矢野町中483 2015.5.7
大矢野城 (おおやのじょう) (中村城) (市の史跡)
最寄地 熊本県上天草市大矢野町中483 2015.5.7
大矢野中学校
登り口・標柱
腰郭・五輪塔群
本丸・顕彰碑・説明板
本丸跡
説明板
北側の曲輪
大矢野城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 市立大矢野中学校(表記番地)北の高台が本丸跡である[マップコード372 876 564*58]。北に畑となった曲輪がある。
本丸西側の腰郭に大矢野氏関係の五輪塔が集められ安置されている。本丸には顕彰碑、説明板が建てられ、広さは東西約40m南北約20mである。
昭和五十二年(1977年)11月15日、上天草市の史跡に指定された。
【歴史】 大矢野氏は筑前高祖城主原田氏の出で、遠祖を辿れば、漢の高祖を祖とし、応神天皇の世に魏の乱をさけて我が国に帰化した後、漢の後裔阿智王の流れを汲むと云われ、鎌倉時代当地に拠って大矢野氏を名乗った。
鎌倉時代元寇の役で、幕府の命により大矢野十郎種保、同三郎種村、同弟の三兄弟は勇躍博多湾に馳せ参じ、竹崎季長による弘安の役の蒙古襲来の絵詞にその三兄弟の武勲の様子が記されている。
大矢野氏が当城に拠った年代は明らかではないが、豊富秀吉の朝鮮出兵で戦死した大矢野種基の代までだと伝えられている。
慶長二年(1597年)以降使用されなかったが、寛永十四年(1637年)の天草・島原の乱の際、一揆勢が城を修復して立て籠ろうとした。しかし一揆勢は島原の原城を本陣としたため、城を放棄し原城へ移動したという。