郡山城 (こおりやまじょう) (雁陣之城) (日本さくら名所100選) (県の史跡)
所在地 奈良県大和郡山市城内町2 2013.9.6
郡山城 (こおりやまじょう) (雁陣之城) (日本さくら名所100選) (県の史跡)
所在地 奈良県大和郡山市城内町2 2013.9.6
毘沙門曲輪石垣・陣甫曲輪・内堀
追手向櫓・渡櫓・追手門
復元追手門
本丸南側門石垣
柳沢神社
天守台石垣
郡山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 近鉄橿原線の西に接して外堀があり、追手東隅櫓、追手向櫓と十九間多聞櫓が石垣の上に復元されている。追手門前に駐車場が用意されている[マップコード11 229 720*43]。
二の丸は県立郡山高校の城内学舎や冠山学舎の敷地になっている。南東の道のすぐ北の陣甫曲輪に住宅が建ち、桝形石垣に追手門、追手東隅櫓、追手向櫓と十九間多聞櫓が復元されている。
法印郭跡に学科指導教室ASUがある。
二の丸公園の南、毘沙門曲輪(地図)に柳沢文庫があり、内堀の土橋を渡ると高石垣の本丸で、柳沢神社が祀られている。神社の北に天守台石垣が残る。
昭和35年(1960年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、昭和五十八年(1983年)に追手門が、翌年追手東隅櫓が、昭和六十二年(1987年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。
【歴史】 天正六~七年(1578~79年)に筒井順慶が縄張りを行い、同八年八月に織田信長による破城令(大和国では一城)により拡張、同十一年(1583年)には天守閣の完成をみた。
同十三年(1585年)筒井定次(順慶の養子)は伊賀上野城へ転封され、代わって豊臣秀長(秀吉の異父弟)が入部してさらに拡張され、文禄五年(1596年)には五奉行の一人・増田長盛による秋篠川の付替えが行われ外堀を一周させ城下町の完成に至った。
関ヶ原の戦いの後、長盛が改易され、筒井定慶が入ったが大阪冬の陣が終った後、元和元年(1615年)四月豊臣秀頼軍との間で郡山城の戦いが起きた。筒井定慶は秀頼軍の兵力を過大に見誤り、福住中城へ逃げ、30名の戦死者で秀頼軍が勝利した。定慶は大阪夏の陣の三日後に悔いて自刃した。
大阪夏の陣で軍功のあった水野勝成が同年七月十九日、三河国刈谷城より6万石で入城し、荒廃した城郭の修築を行った。
元和五年(1619年)八月に備後福山に転封となり、その後松平忠明が12万石で入城した。
次に本多政勝が15万石で入部した。この時に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分は完成した。また武家屋敷、町屋とも発展し延宝年間には城下の家数は4700軒、人口は2万人を超え郡山城の最盛期となる。
しかし、寛文十一年(1671年)に本多政勝が死去すると「九六騒動」という家督相続が起き、息子二人は徳川幕府の裁定で分割相続された。
その後郡山城には明石城から松平信之が8万石で入城した。そして本多氏が何代か続いた後、柳沢吉里が享保九年(1724年)甲府城より入城し、以降幕末まで柳沢15万石の居城として栄えた。
天明七年(1787年)に大飢饉となり米騒動が起こり、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎとなった。
また安政五年(1858年)十二月一日、二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群はすべて焼失する大火にみまわれた。
文久元年(1861年)に再建に着手するが、明治三年(1870年)藩は今後城の修理を行わないことを出願し政府に聴許された。
明治六年(1873年)廃城令で郡山城は破却された。