佐生日吉城 (さそうひよしじょう)
所在地 滋賀県東近江市五個荘日吉町 2017.1.13
佐生日吉城 (さそうひよしじょう)
所在地 滋賀県東近江市五個荘日吉町 2017.1.13
登城ルート
駐車場 先の入り口標識
南西石垣・標識
南西石垣
西側虎口石垣
曲輪・土塁・城址碑
佐生日吉城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【感想】 観音寺城のある(きぬがさ山)の北北東約3.5kmに位置し、標高160mの尾根先端部にある単郭の城跡である。
特筆すべきは、西から南面に大型の石を積んだ石垣がよく残っていることである。
帰りは長い石段を登り、岩窟に安置された北向観音にお参りした。
【案内】 上山天神社[101 005 494*67](地図)への道から「北向岩屋十一面観音」 へ至る車道を約600m登ると「十一面観音」の石段下に駐車場がある[マップコード101 005 322*43] (地図)。
石段の東に「←佐生日吉城跡370m」 の案内板がある。ここからは、200mほど平坦な尾根を行き、門のような大岩を抜け350mほど下ると城跡下に出る。
三角形の郭に土塁を巡らし、東側と西側に虎口を開き、中央に「後藤但馬守城址」の石碑が建てられている。西から南面に高さ2~4mの石垣がよく残っている。
【歴史】 佐々木六角氏の居城観音寺城の支城であり、築城時期ははっきりしないが、六角氏の重臣後藤氏が城主であった。
永禄六年(1563年)六角義賢の子・六角義治(後の義弼)は、義治の采配に批判的な後藤但馬守賢豊を、種村三河守、建部日向守等に命じ、嫡男の又三郎と共に誅殺させた。
六角氏家臣の間で、このことの是非をめぐって観音寺騒動が起こった。
永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、六角義賢・義治父子は、これに抵抗し、居城である観音寺城や支城に兵を配置した。
結果、箕作城の落城により観音寺城の六角父子も甲賀へと逃げた。佐生日吉城も和田山城などと共に運命を共にしたと考えられる。