佐和山城 (さわやまじょう)
所在地 滋賀県彦根市古沢町1104 2014.5.18 2015.5.2
佐和山城 (さわやまじょう)
所在地 滋賀県彦根市古沢町1104 2014.5.18 2015.5.2
登城ルート
龍潭寺門
硝煙櫓跡
本丸跡・城趾碑
堀切
宗安寺山門
佐和山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【案内・感想】 佐和山城跡は、西側山麓にある龍潭寺(表記番地)が所有しているが、好意により無料での入山が許可されている。龍潭寺入口の西向かいに駐車場がある[マップコード101 407 484*24]。
龍潭寺山門の手前に「石田三成公銅像」がある。山門の潜り戸を入った大洞観音堂の東から登り口がある(地図)。
そこより南東に比高約130mの山頂(標高232.5m)に本丸跡がある。本丸手前に発掘調査中の硝煙櫓跡があり、西の丸跡がある。
本丸跡には「萬霊供養地蔵尊」が祀られ、「佐和山城址」の石碑が建てられており、北東隅に本丸石垣(数個の石積)が残っている。土塁、堀切が残っている。 本丸跡からは、南西に彦根城、琵琶湖が望める。
宗安寺(彦根市本町2-3-7)に佐和山城門が移築されている。
【歴史】 鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190~99年)の文書にその名が見える。
室町時代の応仁年間(1467~69年)は、六角氏家臣の小川祐忠が在城した。
戦国時代後期には、北近江における六角氏勢力は衰退し、それに伴い、佐和山城は新興勢力である浅井氏の支城となった。
元亀元年(1570年)六月二十八日、時の城主・磯野員昌(かずまさ)が織田信長らと八ヶ月におよぶ激戦(姉川の戦い)を繰り広げた。
しかし、元亀二年(1571年)二月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城した。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。
天正十年(1582年)六月の本能寺の変の後に行われた清洲会議で、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。
天正十三年(1585年)秀政は、転封となり、替わって堀尾吉晴が入城した。
さらに、天正十八年(1590年。時期については異説あり)には五奉行の一人、石田三成が入城した。三成は、当時荒廃していた佐和山城の大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が聳える近世城郭を築き、人をして「治部少(じぶのしょう・三成)に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。
慶長五年(1600年)九月十五日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2千8百人であった。
城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知などの裏切りがあり、敵を手引きしたため、九月十八日、奮戦空しく落城し、父・石田正継(三成の父)や正澄(三成の兄)、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政が上野高崎城よりこの地に封ぜられ、入城した。直政は彦根城築城を計画したが、着手できないまま、慶長七年(1602年)に死去した。
計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させた。
慶長十一年(1606年)、完成した彦根城天守に井伊直継が移り、佐和山城は廃城となった。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築された物のほかは、徹底的に破壊されたため、城址には、ほとんど何も残っていない。