一万田氏館 (いちまだしやかた) (市の史跡)
最寄地 大分県豊後大野市朝地町池田1436 2019.5.6 12.8
一万田氏館 (いちまだしやかた) (市の史跡)
最寄地 大分県豊後大野市朝地町池田1436 2019.5.6 12.8
説明板
入口・標柱・堀切
館跡切岸
館跡
土塁・館跡標柱
御廟様の石幢
一万田氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 朝地町池田の丘陵にあり、現在は約100m四方の空き地となり、北西隅に切岸、土塁が残っている。
【案内】 表記番地南東の市道の東側に入口があり「一萬田氏舘跡」の標柱が建てられている[マップコード237 369 323*54](地図)。
入口左側に堀切があり、登ってゆくと広い館跡があり草が刈られていた。北西側に土塁が残り館跡の標柱が建てられている。
北東側に一万田氏の夫人を供養したとされる「御廟様の石幢」(六地蔵塔)が祀られている。
約150m南の市道西に墨染桜があり、説明板が建てられている。
昭和六十一年(1986年)2月22日、朝地町の史跡に指定された。
【歴史】 大友氏初代能直の6男時景(景直)は一万田に居館を置き一万田氏を称し、小牟礼城・鳥屋城を築いたと云われる。
天正の初め城主一万田宗慶(鑑実)の時、大友宗麟が館を訪れ、墨染桜の下に仮屋を建て、2夜3日の能楽や酒宴を催したという事が『大友興廃記』(杉谷ッ宗重著)に記されている。
天正十四年(1586年)島津義弘の2万と島津家久の2万が豊後へ侵攻し、これに対し四国の連合軍が援軍として着陣したが、大友氏の軍は戸次川の戦いで大敗、この時の鳥屋城主一万田鎮実は島津軍に内通し、撤退後は大友宗麟の命で、鎮実、叔父の鑑之と従弟の統政の3名は切腹した。ここに、400年余栄えた一万田氏は滅びた。