新納院高城 (にいろいんたかじょう) (高城)
最寄地 宮崎県児湯郡木城町高城3825 2016.5.15
新納院高城 (にいろいんたかじょう) (高城)
最寄地 宮崎県児湯郡木城町高城3825 2016.5.15
登城ルート(緑線は車道)
2郭跡・公園入口
第5空堀跡
第3空堀・竪堀
第1空堀跡
主郭跡・時計台
高城興亡記の石碑
新納院高城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【案内・感想】 県道19号線より斜め右に曲がると第7空堀跡がある。公園入口に門があり、その前に第6空堀跡がある。両方とも埋められ道路となっている。
2曲輪跡には駐車場「永山古墳」「水分神社」がある。その東の尾根道に第5から第2空堀は橋が架けられ両側に竪堀が見られる。第1空堀跡は埋められ、右側に竪堀跡が残っている。
主郭跡は児童公園となり、駐車場が用意され[マップコード219 282 633*13] 、南端の市街地から見える位置にメロディー時計台が建てられている。又、忠魂碑や「高城興亡記」の石碑、説明板が建てられている。
かつて日向国は 5郡8院と呼ばれ、「宮崎郡」、「臼杵郡」、「児湯郡」、「諸県郡」、「那珂郡」の5郡と、「真幸院」、「三俣院」、「穆佐(むかさ)院」、「新納(にいろ)院」、「飫肥(おび)院」、「土持院」、「櫛間院」、「救仁(くに)院」の8院で構成されていた。
この新納院高城と、三俣(股)院高城(別称は月山日和城、都城市高城町)、穆佐院高城(別称は穆佐城、宮崎市高岡町)は、「日向三高城」と呼ばれた。
【歴史】 高城跡は、小丸川とその支流切原川に挟まれた標高約60mの舌状に細長く伸びた台地上にあり見晴らしに優れた要害であった。
城の起源は詳らかではないが、大宝元年(701年)に土塁として城の役割を果たしていたとの記述が残る。
その後、建武二年(1335年)に島津忠宗の四男・時久が、足利尊氏からの恩賞として新納院の地頭職に任命された折りに城郭を築いたとされる。また時久はこの時より新納(にいろ)氏を名乗った。
観応元年(1350年)、時久が京に上がっている隙を突いて、畠山直顕が足利直義側について高城を攻撃しその数カ月後に落城した。
その後、延文二年(1357年)十二月に一色範親の命で土持(つちもち)氏が新納院の地頭職を賜ると、この高城も土持氏の城となった。
ところが長禄元年(1457年)七月、土持景綱が伊東祐堯に敗退すると、土持氏の所有していた財部城を始め10の城が伊東氏のものとなり、高城も伊東氏の城に帰して野村蔵人が城主に任命された。
元亀三年(1572年)に島津氏と戦った木崎原の戦いでの敗れた伊藤義祐らが豊後に逃れると、伊藤氏は没落し日向国内の城は次々に島津方に帰した。
高城も島津氏の城となり、天正六年(1578年)二月十四日、島津義久の命により山田有信が城主および地頭職に任命された。
天正六年(1578年)十月二十日、大友氏は新興勢力の島津氏を潰そうと約5万の大軍でこの城を攻めた。しかし高城城主山田新介有信はわずかな兵力で良く防ぎ、大友軍は大敗を喫した。
天正十五年(1587年)大友宗麟に請われ豊臣秀吉が九州征伐に乗り出した。四月六日に耳川を渡河した豊臣秀長軍およそ8万は高城を包囲すると望楼を建て1300名ほどの高城へと鉄砲や火矢を放った。それには持ち堪え落城はしなかった。
しかし、島津軍本体が根城坂で敗退(根白坂の戦い)し薩摩へと戻ったため、山田有信も息子の有栄を人質に出して、四月二十九日に城を退去、五月一日に秀長軍の宮部継潤が城に入った。その後、秀吉の行った国割りにより、高城は秋月種実の所有に帰した。
慶長二十年(1615年)の江戸幕府の一国一城令により廃城となった。