大津城 (おおつじょう)
所在地 滋賀県大津市浜大津5丁目2 2014.9.2
大津城 (おおつじょう)
所在地 滋賀県大津市浜大津5丁目2 2014.9.2
推定復元図
大津城跡碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 京阪電鉄「浜大津駅」の北の大津港地下駐車場の上は緑地公園(表記番地)になっており、南東角の県道18号線「大津港口」交差点付近に「大津城跡」の石碑と復元図が建てられている(地図)。
彦根城の天守がかつての大津城天守の用材を転用して建てられている可能性が、昭和三十二年(1957年)に行われた彦根城天守解体修理の際に符号、墨書きが見つかったことを根拠に示されている。
これにより大津城の天守は望楼型の四重五階であったと考えられている。
【歴史】 天正十四年(1586年)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城された。
その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、文禄四年(1595年)に京極高次が城主となり6万石を与えられた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、高次は東軍に属し大津城に籠城した。しかし大津城はもともと琵琶湖の水運を利用して美濃、越前方面から運ばれてくる物資を安全に保管するための城郭であり、攻防戦には不向きであった。
九月七日より毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5千の兵に城を囲まれ攻防戦が開始された。これに先立ち、京極軍3千は12時間かけて城下を焼き払い、町は荒野と化した。
京極軍は家臣赤尾伊豆守、山田大炊(おおい)以下、奮戦し、七日間持ち堪えたが、九月十三日からは近くの長等山から大砲で砲撃を受け、砲弾は眼下に落ちるような勢いで天守その他の建築物を破壊し、城内が混乱した間隙を縫って立花軍が二ノ丸までを占拠した。
ここに至り、北政所(高台院)の側近孝蔵主と高野山の木食応其(おうご)の仲介による講和が成立した。翌十四日に降伏開城した高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に上った。
しかし、西軍1万5千を大津城に釘付けにした功績は大きく、戦後、徳川家康は高次を召しだし、若狭小浜城8万2千石に加増転封させた。
高次が若狭へ移ってまもなくして、家康は大津城を廃城にし、新たに膳所城を築城した。
大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は、彦根城、膳所城に転用、移築された。