龍王山城 (りゅうおうざんじょう)
最寄地 奈良県天理市藤井町 2016.4.24
龍王山城 (りゅうおうざんじょう)
最寄地 奈良県天理市藤井町 2016.4.24
登城ルート(緑は北城本丸跡/赤は南城 )
城跡碑・登り口
北城南の堀切
北城本丸跡
北城時の丸跡
時の丸北の堀切
南城入口・説明板
南城平坦地・礎石
南城本丸跡
龍王山城 南城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高50m】
【案内・感想】 国道25号線の天理ダム西より県道247号線を1.4km行き、龍王山の標識のある林道へ右折、約1.8km行くと龍王山城北城下[マップコード 36 839 292*73 ](地図)に着く。
城跡碑、説明板(配置図付)が建てられ、標識に従って登ると、土塁、南虎口があり、石垣の残る堀道、堀切がある。
北城本丸跡(地図)は広く、西側に展望台や土塁が残っている。その下段に、時の丸跡があり右に行くと堀切、曲輪がある。
南城へは、馬池の横を登り、龍王社の横を登ると南城下駐車場があり、登り口に説明板が建てられている(地図)。
登ってゆくと、平坦地が2つあり、最高所に南城本丸跡がある。本丸跡からは、奈良盆地の天理市街が眼下に一望できる。
南東に下ってゆくと、弥七丸跡がある。
【歴史】 南北朝の頃、小さな砦を造られたのが始めで、文明十五年(1483年)以前にすでに築城していた可能性が指摘されている。この時十市党の党首は十市遠清であった。
その後長年の同盟関係であった筒井氏と対立したが、永正十七年(1520年)に、大和国の国人衆は和睦したが、十市氏は同盟から排除され勢力を後退させた。
天文元年(1532年)十市遠忠が継ぎ、河内国より木沢長政と筒井氏が同盟を結び、木沢長政と十市遠忠は対立した。木沢長政が天文五年(1536年)信貴山城に入城した為、十市遠忠は対抗し龍王山城を本格的な城郭に修築した。
天文九年(1540年)筒井氏と和睦してからは、十市遠忠の勢力が急成長した。
天文十一年(1542年)太平寺の戦いで木沢長政が討ち取られ、十市遠忠の勢力は更に拡大し、筒井氏の勢力をしのいだ。十市遠忠は歌人としても名を馳せた。天文十四年(1545年)十市遠忠が急死すると、その子遠勝は筒井順昭、筒井順慶の傘下に入った。
永禄二年(1559年)松永久秀が大和国に入国し、翌年には大和国の大半を征服した。
十市遠勝は永禄五年(1562年)頃までは筒井氏と共に抵抗し、松永久秀と戦っていたが、やがて抗しきれず松永久秀に降り、十市遠勝の娘の御料を人質として多聞山城に入れた。しかし永禄の変の後、永禄十年(1567年)松永久秀と三好三人衆は対立し、東大寺大仏殿の戦いが起きた。
この時筒井氏は三好三人衆と同盟を結び、これが影響し十市氏家臣団の中で対立がおこり、同年十月龍王山城で謀反がおこり、城衆の一部が退城した。
十市遠勝は翌年三月、三好三人衆方に寝返ったが、人質をとられたまま目立った動きも出来ず、宇陀松山城より進出してきた秋山直国軍に山内周辺を制圧され、同年七月二十七日龍王山城を放棄し、十市平城(現橿原市十市)に移った。
十市遠勝は再び松永久秀方に降るが、翌永禄十二年(1569年)十月、遠勝が死亡すると、人質として差し出された十市御料を奉ずる松永派と、十市藤政を擁する筒井派に分裂してしまった。しかし大半は松永派に属しており、龍王山城、十市城ともに松永久秀の手にあった。
元亀二年(1571年)八月、辰市城の戦いで筒井順慶は松永久秀に大勝し、同年末に十市城も攻城したが、落とせなかった。
天正元年(1573年)に松永久秀は織田信長に背き謀反をおこすが失敗し、織田信長に多聞山城を明け渡した。
天正三年(1575年)七月、多聞山城の城主で大和国守護・塙直政が反対したのにもかかわらず、松永久秀の甥松永久通と十市御料は龍王山城で祝言をあげた。
天正五年(1577年)十月、松永久秀・松永久通は再び織田信長に対して謀反を起こし、信貴山城の戦いとなり滅びてしまった。最後の龍王山城の城主松永久通はくクロツカ砦で自害した。
龍王山城は、翌天正六年(1578年)一月十六日織田信長の命により破却された。一度も合戦の機会を得ぬまま廃城となったようである。『ウィキペディア』より。