稲八間城 (いなやつまじょう) (北稲八妻城)
所在地 京都府相楽郡精華町北稲八間北垣外45 2018.7.11
稲八間城 (いなやつまじょう) (北稲八妻城)
所在地 京都府相楽郡精華町北稲八間北垣外45 2018.7.11
登城ルート
武内神社
登り口の階段
南東の堀切
主郭
背後の堀切
稲八間城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 稲八間城主・高橋三河守正喬が旧地に建立した武内神社があり、その西に続く丘陵に3つほどの郭とそれを隔てる堀切が残っている。
丘陵は一時期階段が設けられ整備されたのだろうが、現在は放置状態で朽木が散乱し鬱蒼としている。
【案内】 府道71号線より北に100mほど行くと竹内神社(表記番地)がある。その先は道が細くなり、神社手前の道路にぎりぎり駐車できる[マップコード11 649 550*26]。
神殿の右側より西に行くと、階段があり、東側の郭に着く。鬱蒼とした曲輪の西に堀切・土橋があり、小郭を経て、西に行くと、堀切、主郭がある。背後に堀切が残っている。
【歴史】 武内神社は文保元年(1317年)の建立で、応仁の乱の兵火により文明元年(1469年)神殿を焼失した。その後20年仮設が続いたが、延徳二年(1490年)稲八間城主・高橋三河守正喬が旧地に建立した『神社由来板』。
応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。
南山城(みなみやましろ)でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていた。
文明十七年(1485年)南山城の国人衆や農民らが両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。その際、農民らの立て籠もったのが草路城とされる。
明応二年(1493年)、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになった。これに反対する一部の国人衆は稲八妻城に立てこもって抵抗した。