深川城 (ふかわじょう)
最寄地 山口県長門市深川湯本小河内3027 2018.5.7 2019.5.10
深川城 (ふかわじょう)
最寄地 山口県長門市深川湯本小河内3027 2018.5.7 2019.5.10
登城ルート
鶏舎への入口
1番目のピーク左の鉄塔
北尾根が見える
主郭
鷲頭弘忠の墓
深川城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高210m】
【感想】 長門市深川湯本の標高231mの山頂に築かれている。
2度目の挑戦で、北西尾根の鉄塔を目標に登ってみた。主郭は広く30m四方ほどで2段になっている。
北側に竪堀が見られるが、シダや灌木が多く藪化していてあまりはっきりしないが、堀切や土塁などは見当たらなかった。
【案内】 国道316号線が深川川に差し掛かる手前より右折して700mほど東に行った「小河内集会所」(表記番地)に駐車できる[マップコード327 652 032*40]。
その南東向かいの道を行くと鶏舎のような細長い建物があり、突き当りを右に入る(地図)。
竹林の尾根より南東に行くと、神社跡のような場所があり、南東へ尾根の山道を登って行くと鉄塔右側のピークに着く(地図)。
少し下ると、上下2段になったフエンスがあり、下は金網だが上がネットで持ち上げて抜けることが出来る。
そこより尾根を南東へ登ってゆくと2番目のピークに着く。少し下って山道を登ってゆくと主郭から北に伸びる尾根に着く。帰りのためそこを覚えておく。
右に少し登ると竪堀が頂上まで続いているので、そこを伝って行くと主郭に着く(草やシダに覆われている) 。
大寧寺(長門市深川湯本1074)は鷲頭弘忠によって建立され、本堂南側の斜面に大内義隆主従の墓、鷲頭弘忠墓や関東管領上杉憲実の墓がある。
【歴史】 大内盛房の三男・三郎盛保が周防国鷲頭庄を領して鷲頭(わしず)氏を名乗った。その6代目の弘忠は永享四年(1432年)、大内持世によって長門・守護代に補され、深川城を築き、居城とした。
嘉吉元年(1441年)大内氏12代当主大内持世が嘉吉の乱で負った傷が元で死亡し、大内教弘(のりひろ)が13代当主を継いだ。
それまでは大内氏と鷲頭氏との仲は良好だったが、鷲頭弘忠と教弘は不仲だったといわれ、文安三年(1446年)四月、守護代の任を解かれた。この間に鷲頭弘忠と父弘為は本拠・深川城の周辺に支城を築き、教弘の攻撃に備えた。
鷲頭弘忠は当初、大内教弘が深川城の北側(深川湾)へ水軍をもって侵攻すると考え、同年に鷲頭弘忠が響灘から近い亀山城を築いて備えた。
しかし、いざ攻撃が始まると、教弘は深川城の南側(現在の美祢市方面)から侵攻し、鷲頭氏家臣の刺賀政頼の居城・堅田城や沢差城などを落城させ、搦手から深川城に迫った。
文安五年(1448年)二月十七日、遂に深川城は陥落し、鷲頭弘忠はじめ息子の弘貞を含む一族郎党全てが殺されたという。