雁金山城 (かりがねやまじょう) (雁尾城)
最寄地 鳥取市湯所町1丁目148-2 2017.5.5
雁金山城 (かりがねやまじょう) (雁尾城)
最寄地 鳥取市湯所町1丁目148-2 2017.5.5
登城ルート
トンネル前登り口
平和祈念塔
南東切岸
主郭
北西虎口
雁金山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【感想】 平和祈念塔の建つ雁金山(天徳寺山の砦)は遺構も少なく何か城跡らしくないので、北西に下って行ったらいかにも城跡らしい段郭を備えた山城に遭遇した。
【案内】 国道53号線より東に入った「鳥取市埋蔵文化財センター」(表記番地)の先、トンネルの手前に平和塔入口がある[マップコード125 643 235*17](地図)。
手摺の設けられた坂を登り、左に遊歩道を登り雁金山の東の山を巻いて再び登ると、平和祈念塔の建てられている標高140m雁金山に着く。
一旦下り、150mほど尾根伝いに北西に行くと、標高136.5mの山頂に雁金山城がある。切岸、段郭、虎口などが残っている。
【歴史】 天正九年(1581年)、鳥取城番に任ぜられた吉川経家によって築城され、丸山城に運び込まれた兵糧の中継点として重要視された。
豊臣秀吉の鳥取城攻めの際には塩冶高清が城将として入城して毛利氏からの兵糧搬入に備えたが、秀吉方の部将・宮部継潤の攻撃によって落城させられ、新たに宮部経潤が入城した。
この結果、丸山城-雁金山城-鳥取城の連絡ラインは断ち切られ、鳥取城は完全に孤立することとなった。そして、早い時期から兵糧の不足に苦しんでいた鳥取城にさらなる打撃を与え、鳥取城の落城を早めることとなった。
雁金山落城後、城番だった塩冶高清は奈佐日本之介らの籠もる丸山城に逃れ、奈佐らとともに秀吉軍に対して奮戦したが、天正九年十月、城内の兵士らの飢えと疲労を考慮した吉川経家が鳥取開城を申し入れたのに伴い、丸山城も遂に開城を余儀なくされた。
丸山城を守った奈佐・塩冶・佐々木氏は吉川経家から再三、助命するよう嘆願されていたが、秀吉の命により、周辺を荒らした海賊・山賊という罪によって自刃させられた。丸山城西側の山麓には自刃した城将を祀る石碑が建立されている。