林野城 (はやしのじょう) (倉敷城)
最寄地 岡山県美作市林野67−2 2019.4.13
林野城 (はやしのじょう) (倉敷城)
最寄地 岡山県美作市林野67−2 2019.4.13
登城ルート
住宅北の登り口
三の丸
二の丸
本丸・城址標柱
本丸南側帯郭の井戸
林野城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【感想】 梶並川と吉野川が合流する地点に突き出た標高249mの城山に築かれている。本丸、二の丸、三の丸が東西に等間隔に配置されている。堀切はほとんど見られず、切岸だけの防御となっている。
【案内】 国道179号線より登った「ハローワーク美作」(表記番地)の駐車場を利用させてもらった[マップコード233 573 820*35] 。その西に4階建てのアパートがあり、その向いに説明板が建てられている(地図)。
墓地前を通って西に行き折返し、九十九折れの遊歩道を登ってゆくと、三の丸に着く。4、5段の段から構成されている。
東に登って行き、急な切岸に階段が設けられ、その東に二の丸があり、東側に段差がある。さらに登ると本丸に着く。
本丸の西側に土塁が残り、細長い曲輪の南に帯郭があり、中央付近に石積み井戸が残っている。東端に割と広い櫓台がある。
平成五年(1993年)1月28日、美作市の史跡に指定された。
【歴史】 対岸に位置する三星城主・後藤氏が林野城を築城し一族が在城したと云われる。
康安元年・正平十六年(1361年)山名伊豆守時氏が足利氏に叛き、美作に侵攻した際、三星城と共に林野城も落城し、その支配下となった。
後藤氏は尼子氏、浦上氏に属していたが尼子氏が毛利氏によって滅ぼされ、また浦上氏も宇喜多氏によって滅ぼされ、勝基の時勢力を伸ばした。
しかし、宇喜多氏との領地争いから、天正七年(1579年)宇喜多直家によって攻められ後藤氏は亡びた。
その宇喜多氏も慶長五年(1600年)関ヶ原合戦後に改易となり、小早川秀秋の支配かになり、稲葉通政が入城した。