大阪城 (おおさかじょう) (錦城・金城) (国の特別史跡・日本100名城54)(日本さくら名所100選)
所在地 大阪府大阪市中央区大阪城1‐1 2013.5.26
大阪城 (おおさかじょう) (錦城・金城) (国の特別史跡・日本100名城54)(日本さくら名所100選)
所在地 大阪府大阪市中央区大阪城1‐1 2013.5.26
南外堀・六番櫓
一番櫓・南外堀
乾櫓・西外堀
桜門・内堀
大阪市立博物館
豊国神社・秀吉像
五重八階再建天守
大阪城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。上町筋と本町通の「馬場町」交差点より東に町通を約600m行くと左に「豊国神社」駐車場入口がある[マップコード1 348 411*54] (地図)。
敷地は南北差渡し1㎞に及ぶ。巾約50mの南外堀の外周歩道を桜門に向かって行くと見事な石垣と一番櫓がある。
西に折れてゆくと、二の丸に豊国神社及び豊臣秀吉公銅像がある。内堀の桜門をくぐると本丸広場で、東に趣きのある大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部庁舎)があり、北に天守台、五重(地上6階・地下2階)の天守が鉄筋コンクリート造で再建されている。
内部は博物館に利用され、八階の展望台から大阪市街が望める。天守の北に刻印石広場があり北西隅に淀君の墓がある。
内堀の外に出て西の丸庭園の隅に二重乾櫓がある。南西外堀に大手橋(木橋)が架けられ、大手門、多聞櫓がある。
昭和二十八年(1953年)3月31日、国の特別史跡に指定された。
昭和二十八年(1953年)6月13日、大手門、桜門、塀3棟、櫓8棟が重要文化財に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(54番)に選定された。
【歴史】 戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、天正八年(1580年)に石山合戦で焼失した。
合戦終了後、織田信長の命で丹羽長秀に預けられ、後に四国攻めを準備していた津田信澄が布陣したこともあったが、信澄は「本能寺の変」の際に、丹羽長秀に討たれた。
その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、豊臣秀吉によって領有された。
そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、慶長四年(1599年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍は石田三成率いる西軍に勝利し、実権が豊臣方より移った。
慶長八年(1603年)に徳川幕府が成立した後も、豊臣秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、慶長十九年(1614年)の大阪冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。
慶長二十年(1615年)5月7日、大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。
徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数mの盛り土をして縄張を改め再建した。江戸幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。
寛文五年(1665年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。
復興天守は市民の寄付金により昭和六年(1931年)に竣工し、昭和二十年(1945年)8月14日の大阪大空襲で多くの櫓等が焼失したが、被災を免れた。
平成九年(1997年)9月3日、天守が国の文化福祉建築物に登録された。