豊地城 (といちじょう) (拾市城・都市城・依藤城・東条城)
最寄地 兵庫県小野市中谷町65 2017.9.24 2017.12.16
豊地城 (といちじょう) (拾市城・都市城・依藤城・東条城)
最寄地 兵庫県小野市中谷町65 2017.9.24 2017.12.16
県道の石碑・奥に観音堂
空堀・観音堂
観音堂と八幡神社の間にある土塁
八幡神社西側
八幡神社
八幡神社東側
豊地城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 東・北・西の三方を川に囲まれた、東西約400m南北約200mの城域を持つ平城であった。
八幡神社の西が2郭で、50mほどの土塁を含め観音堂までが主郭とされる。遺構は空堀の一部と土塁の一部が残っている。
【案内】 県道85号線に「といち城跡」の石碑が建てられ、道路標識もある[マップコード133 167 425*88](地図)。
南西に観音堂があり城跡碑(由来文)が建てられ、南側に空堀が残っている。また東側八幡神社との間に土塁が50mほど残っている。
【歴史】 城主は、南北朝時代は金谷経氏、応仁年間以降は赤松氏の家臣・依藤氏(よりふじし)、三木の別所重棟(しげむね)、栗山氏(初代赤松氏の実兄景盛の子孫で依藤氏時代からの執権)と変わった。
東條谷を領して、室町 戦国時代の出来事に深く関わり、三木合戦後(天正八年頃)秀吉の命により取り壊されたが、城跡は栗山氏が引き継いで、以後、畿内 九州 朝鮮出兵など秀吉の働きに広く協力した。『石碑文』