大崎城 (おおさきじょう)
最寄地 鳥取県鳥取市小沢見249 2016.5.20
大崎城 (おおさきじょう)
最寄地 鳥取県鳥取市小沢見249 2016.5.20
登城ルート
東側遠景
沼・登り口
段郭
2郭と主郭切岸
主郭・土塁
大崎城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 北野天満宮入口の灯籠を見て左折、表記番地の先に消火栓ボックスがあり、入口[マップコード 345 687 507*86 ](地図)がある。但し、付近の道は狭く、遠くに停めて歩く必要がある 。
右に山を見て草の道を200mほど歩くと、視界が開け海岸の左の山を目指す。一旦下って沼の左を過ぎ篠竹の間(一人通れる巾に刈られている)を進むと登り口となる。
標高約90m山頂に主郭があり、土塁が残っている。東側に7段の郭が連なっている。主郭下と3郭付近に崩れた石垣が残っている。
【歴史】 『陰徳太平記』によれば、天文十三年(1544年)四月の尼子晴久の因幡侵攻の際、大崎城は反尼子の拠点であったというが尼子氏3万の大軍に恐れをなし、攻略されたという。ただし、この時の城主が誰であるかは不明である。
『因幡志』によると、天正九年(1581年)の羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、大崎城には樋土佐右衛門が城主として籠っていたと言うが、他に傍証となる史料がないため定かではない。
『陰徳太平記』には鳥取城攻めの際の城主として田公備前守高次が記されている。近隣の気多郡内にある勝山城も高次が、宮吉城は田公高家が掌握しており、大崎城も田公一族が守っていたと考えられる。
鳥取城攻めの際には毛利方の城として泊、勝山城とともに攻撃目標に挙げられていた。同年九月には松井康之の水軍によって城の山下が焼き払われているが、この時は落城までには至らなかった。ただし、同年中には秀吉によって開城させられている。
天正十年二月十四日未明、吉川経家の孝養に報いるとして因幡国へ侵攻した吉川元春は、杉原氏率いる1500の軍勢を大崎城へ差し向けた。
当時、大崎城は木下民部大輔ら因幡国人衆800余名が守っていたが、不意を突かれた木下氏ら混成軍は総崩れとなり、460余名が討ち取られ瞬く間に落城した。以降、大崎城に関する記述は見えず、まもなく廃城となったと考えられている。