山田城 (やまだじょう) (龍廻城・朝霧城)
所在地 宮崎県都城市山田町山田3881 2019.3.6 5.5
山田城 (やまだじょう) (龍廻城・朝霧城)
所在地 宮崎県都城市山田町山田3881 2019.3.6 5.5
仮屋跡の標柱・旧山田村長室
仮屋跡・本丸跡標柱(右)
本丸跡・忠霊塔
遠堀跡の標柱
標柱上の空堀
児童公園
児童公園南の空堀
山田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 都城市山田町の山田総合支所が本丸とされる。櫓台があり、仮屋跡があるが、改変されているようだ。
南側は体育館敷地、運動公園となり遺構はほとんど消滅しているが、南辺の空堀が点在している。東西1.4kmに及ぶ長さがあったという。
【案内】 県道42号線に面した山田総合支所(表記番地)一帯が本丸とされる。北側に櫓台があり、忠霊塔が建てられている。北東に仮屋跡があり、旧山田村長室が保存されている。
山田町体育館の南側に運動公園があり、その南高台の児童公園に向かうと、南辺に空堀を見ることが出来る。
体育館より南の県道横に「山田城遠堀跡」の標柱が建てられ、背後の竹藪の中に空堀が見られる[マップコード117 815 330*31]。
【歴史】 正平十四年(1359年)足利尊氏から島津荘北郷を与えられた相良定頼(さがらさだより)が築いたとされる。のちに真幸院(まさきいん)の北原氏が入った。
天文十二年(1543年)都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)が攻め落とし、北郷忠茂を城主とした。
文禄四年(1595年)北郷氏が宮之城に移封され、替って伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が都城領主となり、その支配下になった。
慶長四年(1599年)忠棟が伏見で島津忠恒に殺されると、その子忠真が都城外十二外城に拠って島津宗家と戦った(庄内の乱)。
山田城には長崎治部少輔、長崎休兵衛らが籠城したが、島津軍に攻め落とされた。
乱後、北郷氏が領主に復帰したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。後、地頭仮屋が置かれ、村統治の業務を行った。