志布志城 (しぶしじょう) (国の史跡)
最寄地 鹿児島県志布志市志布志町帖6398 2014.9.10
志布志城 (しぶしじょう) (国の史跡)
最寄地 鹿児島県志布志市志布志町帖6398 2014.9.10
登城ルート(赤は内城本丸/緑は中野久尾/青は大野久尾/紫は松尾城/茶は新城/水色は高城)
志布志城内城模型
天水氏庭園
内城大手口
本丸東の空堀
内城本丸・西土塁
中野久尾
大野久尾
松尾城切通し
松尾城本丸
志布志中学校 (新城)
志布志城 内城本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 志布志城は、内城、松尾城、高城、新城の四つで構成されている。内城の復元模型が「志布志市埋蔵文化財センター」(志布志町安楽41‐6)資料館内に展示されている[マップコード238 490 087*88] 。
[内城] 志布志小学校(表記番地)は居館跡であり、県道499号線より東に入った小学校裏門横に内城入口がある[マップコード238 523 422*80] 。
裏門横より民家の石垣横を通って、登ると「矢倉場」(地図)の曲輪があり、櫓台・土塁があり、平坦地に矢倉の柱位置が復元され、明治に建てられた新納時久の供養碑がある。
空堀の中を通って北に行くと、東の搦め手口に至る深い堀があり、そこより西に登ると上下二段に分れた本丸跡であり、土塁が良く残り、北側の櫓台跡に「三宝荒神」が祀られている。
その北に空堀で分けられた「中野久尾」と呼ばれる四つの曲輪がある(地図)。その西に「大空堀」があり、北に「大野久尾」と呼ばれる広い曲輪がある(地図)。
[松尾城] 志布志小学校西の三叉路交差点頼西へ約100行くと「松尾城跡入口」標柱がある(地図)。
登ると堀があり更に登ると土塁で囲まれた本丸があり、「楡井頼仲卿之碑」が建てられ、横に石祠がある(地図)。
[新城] 志布志中学校(志布志町帖3394)校舎南のグランドが新城跡であり、遺構は消滅している(地図)。
[高城] その東に堀切で分けられ隣接して高城本丸跡がある(地図)。
高城二の丸跡は中学校前の道路(空堀跡)の北にある(地図)。
[武家屋敷] 県道499号線と前川沿いの道路に面して多くの武家屋敷が残り、その庭園遺構(天水氏・平山氏等)も市街地の中に良く残されている。
平成五年(1993年)3月24日に内城(うちじょう)跡が鹿児島県指定史跡になり、さらに平成十七年(2005年)7月14日、国の史跡に指定された。
【歴史】 志布志は、万寿三年(1026年)に都城を中心に平季基(たいらのすえもと)によって開かれた日向国の島津荘の港として発達した。
平安時代末期の文治五年(1189年)には救仁院(くにいん)氏が治め、救仁院氏の分家に当たる安楽氏が志布志の西にある安楽の地と安楽城を治めていた。その後救仁郷氏、千種氏の領有を経て、楡井氏の城となった。
築城者と築城年代は正確には不明だが、建武三年(1336年)に志布志城の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っており、これは最も早く築城された松尾城を指すと考えられる。記録上に見える城主は楡井(にれい)氏、新納(にいろ)氏、豊州家島津氏、肝付氏、島津氏と替った。
楡井頼仲を中心とした楡井氏は、信濃国に本流を持つ一族で南朝方に属し松尾城を拠点に、同じ南朝方の肝付氏と協力関係を保ち、北朝方の島津氏や畠山氏と対立した。
正平六年(1351年)三月、楡井氏と畠山氏は大規模な戦いを起し、八月に松尾城は陥落し、畠山氏の領有となった。敗れた楡井頼仲は肝付氏の高山城に落ち延び肝付氏の許しを得て、弓張城に居を構えた。
その後、楡井頼仲は正平十二年(1357年)迄数回、松尾城や大崎胡麻ケ崎城を奪おうとしたが、最後には敗れて、大慈寺宝池庵で自刃したと伝えられる。
頼仲の位牌と墓は大慈寺宝池庵跡の現在の大慈寺(志布志市志布志町志布志2-1-19)にある。また、弓張城跡である高山の四十九所神社には、頼仲の誠忠碑が建てられている。
島津四代忠宗の四男時久が日向新納院の地頭となり、新納(にいろ)氏を名乗った。畠山氏に新納院を奪われ、救仁院を与えられ、畠山氏に楡井氏が敗れた後、新納氏二代実久が志布志を領有した。
島津六代(奥州家)氏久の援護を受けて畠山氏を撃退した。これ以降、新納氏は志布志城を本拠とし約180年間志布志を治めた。
天文四年(1535年)薩州島津実久に呼応して、飫肥の豊州家島津忠朝、都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)、清水(国分)の本田董親(ただちか)、高山の肝付兼続、根占の禰寝(ねじめ)氏らが志布志に集まったが、新納忠茂はこれに応じず、そのため翌年以降、豊州家島津氏、北郷氏、肝付氏らが三方より志布志城を攻め、天文八年(1539年)新納氏は降伏し、志布志を去った。
救仁院を手に入れた豊州家島津忠朝は飫肥城を息子に任せ志布志城に移った。永禄五年(1562年)忠親は、伊藤氏に攻められ飫肥城が落城し、志布志も肝付氏に攻められ、和睦を申し出て、飫肥城を伊藤氏に、志布志城を肝付氏に明け渡し、豊州家島津氏は串間城に退いた。
当初、志布志城には肝付兼続の嫡子良兼が入り、永禄七年(1564年)には、兼続が重臣と共に入った。
天正元年(1573年)北郷時久と国合原で戦い肝付竹友が戦死した。翌年、島津氏に攻められた肝付氏方の牛根城が落城した。
天正三年(1575年)島津氏との戦いが不利となった肝付氏は島津氏に下り、伊藤氏と絶縁した。
その年末、伊藤氏に新納院高城を奪われ、串間と志布志も攻められた。翌年、肝付氏は島津氏の伊藤領高城攻めに参加したが、南郷の戦いで大敗を喫し串間に退いた。その後島津氏の所領となり、肝付氏は高山城に移った。
天正五年(1577年)島津氏の地頭として鎌田政近が志布志城に入った。同年、島津義弘が伊藤氏の都於郡城を攻略、伊藤氏は豊後へ逃れた。この頃より、日向南部は島津氏が平定した。
その後も外城として重要な役割を果たしたものの、一国一城令で廃城となった。しかし、建物が無くなっただけで破壊はされなかったらしい。