宿毛城 (すくもじょう) (松田城)
所在地 高知県宿毛市中央2丁目4−6 2014.9.13 2021.3.10
宿毛城 (すくもじょう) (松田城)
所在地 高知県宿毛市中央2丁目4−6 2014.9.13 2021.3.10
登城ルート
宿毛中学校・遠景
石鎚神社鳥居
石鎚神社
北西石垣
山内可氏の墓
宿毛城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 宿毛中学校と松田川に挟まれた小山に宿毛城跡が位置し、川に面して鳥居があり、城跡碑、説明看板が建てられている[マップコード245 087 477*08]。
東側は道路保護のため石垣が造られている。比高20mほどの頂上に土塁が残り、老朽化した石鎚神社(表記番地)が建っており、西側と北西側に石垣が残っている。
宿毛中学校敷地が土居と思われる。東福院(宿毛市桜町16−2−2)に山内可氏の墓がある。
【歴史】 築城時期、築城者は不明である。松田兵庫が城主だった時期もあるが、依岡伯耆守が城主の時、天正三年(1575年)長宗我部元親の軍勢が土佐一条氏を攻め、その勢力下にあったこの城を陥落させた。
長宗我部政権下になり、一族の長宗我部右衛門太夫が入城し、その後野田甚左衛門が在城し、四国西南地域の拠点となった。
慶長六年(1601年)山内一豊の土佐国入封に際し、松田城には一豊の甥の山内可氏(よしうじ)が周辺のおよそ6千石の知行地を与えられて入城した。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により城は破却されたが、可氏は麓の土居(屋敷)を改築し、宿毛の統治を続けた。
可氏以降も子孫が代々土居で宿毛を統治し、これを中心に城下町を形成した。延宝八年(1680年)頃の絵図には、土居の様子や町割り、土佐藩奉行・野中兼山の治水事業による河戸堰、宿毛総曲輪(堤)などが見て取れる。土佐藩内には、同様の経緯で各地の土居に重臣が点在し、これらは「土居付家老」と呼ばれ藩士の中でも上位の家格をほこった。
明治維新に伴い、十一代当主山内氏理(うじさと)は姓を伊賀と改め当地を離れ東京に移住した。土居の遺構は現存しない。