白山城 (しろやまじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県東広島市高屋町白市176 2016.5.9
白山城 (しろやまじょう) (県の史跡)
最寄地 広島県東広島市高屋町白市176 2016.5.9
登城ルート
登り口
六地蔵
2郭
2郭主郭間の堀切
主郭・三角点
白山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 県道351号線より東に行くと、光政寺(表記番地)がある。その道路向かいに駐車場(地図)が用意されている。また、北に約120m行った交差点右に説明板が建てられている。
「東町しろやま公園」のある光政寺門前を南に行くと、「六地蔵」があり、その先に「鶯塚」がある。さらに篠竹の密生した道を登ってゆくと堀切があり、北(左)に登ると、三角点のある城山頂上に主郭跡がある。
主郭は三段に分かれ、その周囲を帯郭がめぐっているとされるが、篠竹が密生し踏査はできなかった。堀切の南に、竹を分けて登ると、2郭跡がある。
駐車場の前の南北に通る道に沿って、城下町があり、木原家住宅が現存する。
昭和四十四年(1969年)4月28日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 文亀三年(1503年)に平賀氏当主の平賀弘保は、居城であった御薗宇城の防備に不安を感じ、白山城を築いて居城とした。
しかし、この城も堅城とまではいかず、白市を眼下に望み経済的には有利な城であったが、近隣に滝山城、新開城等の支城を整備して、最終的には頭崎城(かしらざきじょう)を築くまでに至った。
平賀弘保の息子、平賀興貞は頭崎城に入ったが、後に大内氏と尼子氏との対応で意見が異なり、親子で度々争った。後に毛利氏の介入によって親子の争いに終止符を打ち、家督を平賀隆宗に継承させた。
城は頭崎城が完成後も維持された。廃城年は不明。『ウイキペデイア』より。
【城下町】 城下には平賀弘保が永正二年(1505年)に建立した光政寺があり、一族の木原家の歴代墓所が残る。
その木原家は平賀弘保の弟、木原保成を祖とする一族で、初代の保成は慶長五年(1600年)に平賀元相が長門国萩に移住すると、毛利氏を離れて紀伊国和歌山を領した浅野氏に仕えた。
その後、この故地に戻って商売を始め、江戸時代初期から酒造業や塩田業を営み、安芸国有数の商家として栄えた。
現在でも白市に残る寛文五年(1665年)に建てられた「木原家住宅」は、昭和41年(1966年)6月11日に国の重要文化財に指定されている。
城内には松尾芭蕉の門人志太野坡の高弟で、俳人多賀庵風律が完成五年(1793年)に建てた「鶯塚」の石碑が残る。