堂崎城 (どうざきじょう)
所在地 鹿児島県出水郡長島町城川内 2014.9.8
堂崎城 (どうざきじょう)
所在地 鹿児島県出水郡長島町城川内 2014.9.8
登城ルート
南東遠景
嶋津忠兼之碑・登り口・説明板
城門跡
石塁・若宮神社
本丸・金刀比羅神社
海側(西)
堂崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城跡は東シナ海に面した標高29mほどの堂崎鼻に所在している。城川内川の橋の手前に「榎之丸」、「内馬場」、「本馬場」の石碑が建てられ、橋の北東に「仮屋跡」の碑が建てられている。
橋を渡った西に駐車スペースがあり[マップコード299 494 721*84](地図)、「古射馬」の碑、説明看板がある。その横に「嶋津常陸守忠兼之碑」「支那事変・大東亜戦従軍記念碑」が建てられている。
登城口より登ると「立番丸」があり、その西に城門跡の石段が残り、土塁がある。「御城内」と呼ばれる曲輪に若宮神社が建てられ、玉石の石塁が残っている。
その西に「本丸」があり、金刀比羅宮が祀られ、巨石が中央にある。
昭和四十三年(1968年)8月20日、長島町指定史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代初期から長島を領有した長島氏の居城跡である。
長島氏は大蔵氏の一族で、肥後国天草地方で南北朝時代に勢力を伸ばし、室町時代に天草八氏の一つに数えられていた。
室町時代末期になると肥後人吉の相良氏が長島に勢力を伸ばし、天文二十三年(1554年)七月、相良氏の強圧に耐えかね、城主・長島但馬守鎮真はは当城を放棄し、薩州島津家を頼って出水に逃れた。その後、相良氏は本渡城主・天草尚種の弟天草越前正を当城に入れた。
永禄八年(1565年)島津家第六代当主島津義虎は、叔父の島津常陸守忠兼に長島攻略を命じ、島津忠兼の率いる軍勢は三月二十三日に渡海して汐見の板場の鼻に軍を上陸させ、戦ったが落ちなかった。
翌二十四日暁に、天草の志岐氏・栖本氏の援軍を得て一気に攻めかかった。一方堂崎城では女、子供迄必死に抗戦したが多勢に無勢、ついに敗れ当城は落城し、城主天草越前正は切腹した。
以後、長島は薩州島津家の領有となった。なお、落城後は島津忠兼が居城としたが、落城から約三ヶ月後の七月八日、讒訴により出水の島津義虎により誅殺された。
翌年、野田・長島で悪疫が大流行し、死者多数が出たため、「忠兼の祟り」として後に汐見と堂崎城跡に若宮神社を建立し島津忠兼を祀り、命日に踊り(お八日踊り)を奉納するようになった。
明暦三年(1657年)に長島郷が出水郷から分かれ、地頭仮屋が鷹巣に移されるまで、当地が長島の中心地であった。