和田城 (わだじょう)
所在地 滋賀県甲賀市甲賀町和田 2017.2.3
和田城 (わだじょう)
所在地 滋賀県甲賀市甲賀町和田 2017.2.3
登城ルート
登り口
腰曲輪
虎口・土塁
主郭 ・土塁
堀切・南曲輪
和田城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 約30m四方の主郭は草や笹が密生しているが、高い土塁は見応えがある。
【案内】 県道51号線の和田川の「藪内橋」手前を左折し約260m行った場所に路駐させてもらった(地図)[マップコード 453 162 076*53]。
入り口に説明板が建てられている。畦道を南西に行くと、登り口に説明板が建てられている。
登ってゆくと井戸跡があり、北曲輪の左に腰曲輪があり、左手に高さの違う土塁を巡らした主郭がある。南側は4、5mと高く上部は広い。西側土塁は約3mで北側の低い土塁に続いている。南側に深い堀切で隔て曲輪が残っている。
和田城の支城として和田川の西に南より、和田支城1、和田支城2、和田支城3と並び、和田川東に南より棚田山城、殿山城と配置されている。
【歴史】 和田氏の祖先は応和年間(961~64年)に和田を領有した源満政といわれ、室町幕府3代将軍足利義満の頃に和田に移住したと伝えられる。近江国守護佐々木氏の重臣であり、五反田や毛枚を領有する土豪であった。
戦国時代の武将として和田惟政(1530~71年)がいる。永禄八年(1565年)、惟政は興福寺から亡命してきた一乗院覚慶(後の足利義昭)をかくまったことで知られ、後に15代将軍となった足利義昭に仕えた。
しかし、同時に織田信長にも仕え、三好三人衆を撃退した功により摂津国守護として任じられ、茨木城・高槻城の城主を兼任、京都所司代となった。
元亀二年(1571年)、摂津国白井河原(現大阪市茨木市)で同じく摂津国守護であった池田氏の家臣荒木村重と戦い敗死した。墓は、近江八幡市安土町の浄厳院にある。