柳生城 (やぎゅうじょう)
最寄地 奈良県奈良市柳生下町445 2018.7.11
柳生城 (やぎゅうじょう)
最寄地 奈良県奈良市柳生下町445 2018.7.11
登城ルート
芳徳寺本堂
井戸小屋左から登る
堀切
南の郭・配水施設
主郭
柳生城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 奈良市柳生町の標高322mの山頂の主郭を中心に西に帯郭、南に配水施設のある曲輪を配置し、南端に深い堀切が残っている。登り口が判りづらく標識が欲しいところだ。
【案内】 国道369号線より柳生川を渡った芳徳禅寺(表記番地)参道前の市営観光駐車場(有料)が利用できる[マップコード502 219 173*34](地図)。
芳徳禅寺山門下段の平坦地に「石舟斎塁城址」の石碑が建てられている。
参道途中の「柳生正木坂剣禅道場」向い右側の井戸小屋横より登ってゆくと、大きな堀切に着く。
堀切より左に登ってゆくと、配水施設のある南の郭に着き、北側に主郭がある。主郭は草茫々ではっきりしない。西側に帯郭が残っている。
【歴史】 築城時期は定かではないが、関白藤原頼道が大和国四ヶ郷を春日神社に寄進し、菅原永家が小柳生郷の庄官となり、小柳生氏を称したのが始まりとされる。
天文十三年(1544年)家厳・宗厳父子は筒井順昭に攻められ落城し、筒井氏に降った。
元亀二年(1571年)の辰市合戦にも宗巌は松永久秀に味方し筒井順慶と戦った。この合戦で松永方は敗北、宗巌の嫡男巌勝が負傷した。
その後、天正十三年(1585年)柳生宗巌(むねよし:石舟斎)は秀吉により所領没収となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦功により宗巌の五男宗矩が柳生家再興を果たした。後に徳川家康に仕え将軍家剣術指南役として取り立てられた。