白旗城 (しらはたじょう) (国の史跡)
最寄地 兵庫県赤穂郡上郡町細野544 2019.4.13
白旗城 (しらはたじょう) (国の史跡)
最寄地 兵庫県赤穂郡上郡町細野544 2019.4.13
登城ルート
登り口
中間の谷道
櫛橋丸
二の丸・土塁
本丸虎口
本丸
三の丸・土塁
白旗城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高380m】
【感想】 千種川右岸の標高440mの白旗山に築かれている。最高所の本丸の北に三の丸、南に馬場丸・二の丸、その東下段に侍屋敷、二の丸の南西に少し離れて櫛橋丸と並んでいる。
規模は大きく、比高も高く、登るのに疲労困憊だった。往時の武士の健脚振りが偲ばれる。
落ちない城としても有名で、本丸には合格祈願の絵馬が多数掛けられていた。
【案内】 国道373号線より東へ行った赤松地区の表記番地向かいにゲートがあり登り口となっている[マップコード233 269 788*51](地図)。西側の堤防北側に駐車スペースがある。
遊歩道が整備され標識も要所に建てられ迷う事はない。所要時間は1時間20分程である(登り片道)。
ゲートを入った間もなく栖雲寺跡や白旗八幡社跡・五輪塔群などがある。そこからしばらく歩くと、本格的な登りとなり、3分の1毎に休憩ベンチが置かれている。
谷道の中間付近は石がゴロゴロしており歩きにくい。
今回は西麓の細野地区から登ったが、東麓の本村地区の鞍居バス停付近からも登れる(地図)。
平成八年(1996年)3月28日、赤松氏城跡として感状山城跡・置塩城跡とともに国の史跡に指定された。
【歴史】 築城期には二つの説があり、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)が護良親王(大塔宮)の令旨を受け鎌倉幕府打倒の軍を挙げた時に築いたという説(1333年説)。
もうひとつは、赤松則村(円心)が幕府滅亡後に成立した建武政権から離反した足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いた説(1335年説)でこれが有力視されている。そして、新田義貞率いる軍勢による50余日の城攻めに耐えたという。
康安元年(1361年)には、赤松則祐が南朝方の襲撃で京都を逃れた春王(足利義満)らを避難させたという。以後嘉吉の乱で滅びる迄、播磨・備前・美作3国の守護大名赤松氏の本城となった。
嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は将軍足利を討伐するとして白旗城で挙兵し、義教を殺害し帰還したが、幕府軍に攻められて落城した(嘉吉の乱)。
享徳三年(1454年)、赤松則尚は白旗城に入り、矢野荘に年貢を納めるよう命じた。また城の修築・改修のために人夫も徴用している。
明応八年(1499年)、守護代・浦上則宗は赤松義村を擁して白旗城に入る。同年、浦上宗国は則宗らが籠もる白旗城を攻めるも、則宗の家臣の宇喜多能家の働きによって撤退させられた。
永正四年(1507年)、赤松氏の御一家衆赤松播磨守家当主・赤松播磨守勝範(大河内勝範)が白旗城に拠って反旗を翻すも、赤松義村の攻撃によって落城する。
永正十七年(1520年)、赤松義村が白旗城を拠点に美作国岩屋城を攻めるも撤退。この頃の記録を最後に白旗城の名は歴史上から消える。