姫野々城 (ひめののじょう) (半月城)
最寄地 高知県高岡郡津野町姫野々503 2014.9.13
姫野々城 (ひめののじょう) (半月城)
最寄地 高知県高岡郡津野町姫野々503 2014.9.13
登城ルート(緑線は車道)
東側堀切
二の段東
詰の段
二の段西
西側堀切
西側2番目の堀切
姫野々城 詰の段(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m】
【案内・感想】 新荘川左岸の姫野々にある標高196mの山頂に築かれている。
国道197号線より北に行った葉山小学校東(表記番地)の東、プールの横の石垣に銅製の看板がある。
そこより墓地の横(地図)を北に登ると砂防ダムがある。沢の東に落石の多い斜面があり(崩落)何とか直登すると、「西本城」の郭があり堀切が残る。
九十九折れの径が現れ、頂上近くは擬木の階段となり、各種標識がある。標高196m比高約140mの頂上に面積約180㎡の詰の段があり、その下に詰を取り巻き二の段があり、南東に「城山公園案内板」が建てられている。
二の段の東西に空堀が残っている。詰の段北西に、崩れた石垣が残る。詰の段の東に「東本城」がある。
後で分ったが、小学校の前道路の東、約500mに遊歩道入口があった。そこより北に入口があり(地図)、白雲神社まで車道がついている[マップコード445 086 483*10]。そこより北西に遊歩道がある。
【発掘調査】 平成六~八年度にかけて発掘調査が行われ、礎石建物跡や土師器、青磁、白磁、染付など中国から輸入された陶磁器、飾り金具、笄(こうがい)、刀の切刃などの銅製品が多量に出土した。
年代は十四世紀から十六世紀にかけての物であり、中でも十五世紀後半から十六世紀前半の遺物が多く出土している。
【歴史】 津野氏は藤原仲平の子である越前国今立郡山ノ内の山内経高を祖として、延喜十三年 ( 913年 ) に土佐国に入国したことよりはじまる。 このために当初、津野氏は山内と称していた。
津野氏は檮原町(ゆすはらまち)・津野山を本拠地とし、新荘川のほとりに津野荘を経営した。これが姫野々城の元である。
永正十四年 ( 1517年 ) 、津野元実は一条氏の属城、戸波城を攻めて恵良沼で戦死し、津野氏の勢力は衰退した。
のちに中村城主一条氏の配下となった。長宗我部氏の圧迫に耐えかねた津野勝興は、長宗我部元親の第三子、津野親忠を自分の養子とし、元親に降伏した。
慶長五年 ( 1600年 ) 、関ヶ原の戦いに敗れると、親忠は切腹させられ津野氏は滅亡した。