門司城 (もじじょう) (門司関山城・亀城)
所在地 福岡県北九州市門司区門司 2014.5.14
門司城 (もじじょう) (門司関山城・亀城)
所在地 福岡県北九州市門司区門司 2014.5.14
登城ルート(緑線は車道)
登り口
城跡碑・砲台・電波塔
城跡碑
砲台跡
明治の石垣
門司城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 関門橋の下「国際海運会館」(門司区旧門司2丁目5−1)の北より大きく東に折れ一方通行の道を約1㎞登ってゆくと、和布刈公園駐車場に着き[マップコード 16 746 407*58 ]、南東にパゴダが建てられている。
駐車場より北に約100m登り、城跡案内標識のある歩道を右回りに約300m登ってゆくと、ドコモの古城山無線中継所があり、北に要塞遺構があり、南西の古城山頂上(標高175m比高約50m)に門司城跡がある。
城跡碑と明治の砲台遺構がある。又、宮冬二の歌碑「波の間に降り込む雪の色呑みて玄海の灘今宵荒れたり・まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば」が建てられている。下関港や門司港、関門海峡や関門橋の絶景が望める。
【歴史】 『豊前志』などの記述によれば、元暦二年(1185年)に平知盛が家臣の紀井通資に命じて築いたという。
寛元二年(1244年)下総前司藤原親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任じられ下向し、入城した。
のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により門司(もんじ)氏を名乗り、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支城を構えてそれぞれ一族が配置した。
南北朝時代の貞治二年/正平十八年(1363年)には当城の吉志系門司左近将監親尚らが北朝、猿喰城の井川系門司若狭守親頼が南朝に付いて門司氏は分裂、対峙し、大内広弘世の援軍を得た親尚は 猿喰城 を攻略した。
戦国時代には当城をめぐる攻防が続き、永享二年(1430年)に秋月春種と原田信朝が大内氏の当城を攻め落とした。
その後、大内氏の城として存続するも、天文十九年(1550年)の大寧寺の変の後、厳島の戦い、防長経略を経て、毛利氏と大友氏の不可侵条約の条件として豊前国は大友領となり、門司城は大友氏の城となった。
しかし、毛利氏は永禄元年(1558年)に小早川隆景を大将として門司城を攻撃し、城を奪取し、仁保隆慰(たかやす)を城代とした。
永禄四年(1561年)には戸次鑑連(べっきあきつら・立花道雪)、田原親堅、臼杵鑑速(あきはや)ら大友義鎮(よししげ・宗麟)の軍勢・数万人が門司城を攻めたが(門司城の戦い)、毛利氏は壮烈な戦いを経てこれを撃退した。
この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号し、将軍足利義輝を仲介しての和睦交渉を進め、永禄七年(1564年)七月に尼子氏との戦いが激化した毛利氏との和睦が成立し、門司城は引き続き毛利氏の勢力下となった。
慶長五年(1600年)に細川忠興が豊前国に入ると、城を修築して長岡勘解由(沼田延元)を城代においた。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により元和三年(1617年)に廃城となった。
明治二十五年(1892年)に大日本帝国海軍の下関要塞(下関から門司に及ぶ一大要塞)が築かれたため遺構はほぼ壊滅したが、往事の石垣が一部残っている。