吉良城 (きらじょう) (吉良峰城) (市の史跡)
最寄地 高知県高知市春野町弘岡上1294 2018.3.7
吉良城 (きらじょう) (吉良峰城) (市の史跡)
最寄地 高知県高知市春野町弘岡上1294 2018.3.7
登城ルート(緑線は車道)
入口・遠景
登り口
南郭
南郭の穴
主郭南の堀切・橋
主郭・土塁
主郭西側石垣
2重堀切1、2
堀切3
堀切4
吉良城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m】
【感想】 吉良ヶ峰から南東に伸びる標高116mの山頂に南郭、その北に主郭が配置され下段に附属の郭が残っている。
主郭の石垣や深い堀切、2重堀切と2条の堀切がよく残っている。
【案内】 春野弘岡上保育園(表記番地)の東側の道を200m程北上すると案内板、標識がある[マップコード181 624 809*40](地図)。その西のホーム跡入口が広く駐車できる。
谷筋へ向かうと、道標がありそれに従って尾根に出、尾根を東に登ってゆく。切り立った切岸左を登ると四角い穴があり(近年掘られたらしい)、その先に細長い南郭があり先端に祠が祀られている。
戻って北に下ると小郭があり、その先に竹の橋の架かった堀切がある。堀切を渡って右に行くと主郭があり石垣が残っている。主郭の南端に土塁が残り、北西に下ると、4重堀切(堀切1,2,3,4)がよく残っている。
【歴史】 吉良氏は平治の乱の後、土佐に配流された源義朝の5男源希義の子孫といわれ、その子、吉良八郎が築いた平山城だと伝えられる。
吉良宣常の頃が全盛で、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かった。
吉良宣直が5千貫を領し、戦国時代に土佐七雄の1人に数えられた。
天文九年(1540年)本山城主本山氏は吉良城から北北東約4.5kmに朝倉城を築いた。それに恐れた宣直は土佐一条家を頼り、一条氏は森山砦を築いて、本山氏に対抗した。
二月、本山茂辰は宣直が仁淀川で鮎漁に興じる隙を見て奇襲し、吉良城は落城、仁淀川の如来堂で宣直は落命し、名門吉良氏は滅亡した。
吾南を手にした本山氏は吉良氏を名乗り(吉良式部少輔茂辰)、森山、秋山を含めて土佐中央部を支配した。
しかし、東方で長宗我部氏が勢力を拡大して来た。両氏の対立は長浜の戦いの戸ノ本の戦いから始まり、永禄六年(1563年)、ついに本山氏は朝倉城、吉良城から撤退した。
長宗我部元親は弟の長宗我部親貞を入城させ、吉良親貞と名乗らせた。しかし、親貞の子吉良親実は後継問題で元親の怒りを買い、切腹させられた。この城は後に元親の子、盛親に与えられたが、程なくして廃城になった。