河口城 (かわぐちじょう) (泊城・泊の要害) (町の史跡)
最寄地 鳥取県東伯郡湯梨浜町泊1085−1 2018.8.11
河口城 (かわぐちじょう) (泊城・泊の要害) (町の史跡)
最寄地 鳥取県東伯郡湯梨浜町泊1085−1 2018.8.11
登城ルート(緑線は車道)
降り口
説明板
南側の空堀
主郭東の堀切
城跡標柱・虎口
主郭
土塁
櫓台石垣
河口城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 泊漁港方面に突き出た標高68mの舌状台地先端部にあり、台地基部に深い堀切が残っている。また、南側に土塁、石垣が残っている。一方北側は草木が茂り、港方面は望めなかった。
【案内】 国道9号線「中央公民館泊分館」交差点より北に入りすぐ左折、「湯梨浜町保険福祉センター」(表記番地)前を通って、9号線跨道橋を渡って700m行く。T字路を右折750m行ったカーブ先に説明板、案内図が設置されている[マップコード345 608 724*26](地図)。
ここから北西に「ふれあいの森」を抜けて200mほど降りていくと、休憩小屋の背後に土塁がある。
その北に空堀(堀切に続く)で隔てて、主郭がある。5mほど高い台地に、主郭があり虎口に門柱礎石、南側に土塁や櫓台の石垣が残っている。
昭和四十九年(1974年)1月23日、泊村(現湯梨浜町)の史跡に指定された。
【歴史】 建武四年(1337年)伯耆守護に任じられた山名伊豆守時氏は、田内城(倉吉市)に守護所を置いた。その後、打吹山城に移り、代々守護職を世襲した。
室町時代、伯耆国と因幡国の国境の軍事・交通の要衝に築城し、山名氏の一族(河口氏)が城主となった。大永四年(1524年)五月、出雲尼子氏に攻められ久氏らは追放され、尼子誠久が入った。
天文十五年(1546年)には武田国信・南条宗勝らの攻撃で落城し、元城主の河口久氏が入城するが、尼子氏の攻勢で再び退去を余儀なくされた。
永禄五年(1562年)に毛利氏によって奪還された後、再び河口久氏が入った。
天正七年(1579年)に南条氏が毛利氏より離反すると河口(山名)久氏は毛利方に属し、城は毛利方の拠点となった。
そのため、織田氏の攻撃目標となり、天正九年(1581年)九月には松井康之率いる水軍によって城下もろとも焼き払われ、泊浦の警固船65艘も焼かれている。
豊臣政権下の天正十三年(1585年)以後は羽衣石南条4万石の領域となったが、慶長五年(1600年)の南条氏没落によって廃城となった。