南天山城 (なんてんざんじょう) (市の史跡)
最寄地 広島県三次市吉舎町吉舎22 2017.5.13
南天山城 (なんてんざんじょう) (市の史跡)
最寄地 広島県三次市吉舎町吉舎22 2017.5.13
登城ルート
尾崎山の堀切
3郭
2郭
本丸・土塁
南背後の堀切
南天山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高120m】
【感想】 江の川に合流する馬洗川左岸の標高348mの丘陵先端部にある。
7つの曲輪群が階段状に配置され、最上段の虎口北に竪堀、井戸跡が残っている。
南に登ると、竹林となった広い3郭があり、上段に2郭、本丸と並んでいる。本丸南に高い土塁、深い堀切がよく残っている。
【案内】 国道184号線「毘沙門橋北詰」交差点より吉舎(きさ)町街地を約300m行き、右折約300m行くと、善逝寺(表記番地)東に尾崎山公園駐車場が用意されている[マップコード267 164 720*83](地図)。
尾崎山の堀切は江戸時代後期に清正公と呼ばれる庵の初代庵主田正上人が農道として開削した。
その右に登った清正公神社の拝殿右に登り口がある。本丸まで遊歩道があり、迷う事はない。
平成九年(1997年)11月25日、三次市の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は定かでないが14世紀中頃、和智資実により築城され約200年間9代にわたって和智氏の本拠となった。
戦国時代、和智氏は大内氏と尼子氏の2大勢力の間にあって、大永二年(1522年)に尼子氏に攻められ、8代豊郷は尼子氏に降った。
9代誠春は、大内氏を滅ぼした毛利元就に与し各地を転戦したが、永禄十二年(1569年)元就によって厳島において誅殺された。
誠春の子・和智元郷は毛利氏に従い、毛利氏の広島城移転の際城下に屋敷を与えられた。このころ、南天山城は廃城となったと思われる。