塚崎城 (つかざきじょう) (武雄城)
所在地 佐賀県武雄市武雄町武雄5540‐2 2020.3.10
塚崎城 (つかざきじょう) (武雄城)
所在地 佐賀県武雄市武雄町武雄5540‐2 2020.3.10
本丸への西側階段
本丸跡・城跡碑
本丸跡・城跡碑
石門
塚崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高10m】
【感想】 武雄川右岸の御船山の北麓にあり、武雄高校が二の丸、三の丸といわれる。
テニスコート西の本丸跡に城跡碑があるものの、遺構はほとんど見られないが、西麓の武雄川横に石門が保存されている。
【案内】 国道34号線「第三御船橋」交差点より団地西を行った角に階段があり、駐車できる[マップコード104 377 249*88]。
武雄高校(表記番地)の南西に位置し、階段を登ると本丸とされる平坦地がありフエンス前に「塚崎城跡」碑が建てられている。
また、西方の武雄川に面して、唯一当時の面影を残す石門がある[マップコード104 376 266*11](地図)。
【歴史】 元永年間(1118~20年)藤原北家流・後藤氏は塚崎荘の地頭となり下向し塚崎城を築いたと云われる。
天正十四年(1586年)20代後藤家信の時、住吉城を築いて移った。しかし慶長四年(1599年)住吉城は火災により焼失し、再度、塚崎城を修復して居城を移した。
後藤茂綱は1万9千石余の所領を得て、後に鍋島家の親類同格となって鍋島姓となり、武雄鍋島氏となった。
元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となり、御屋敷に居住して武雄鍋島家は明治まで続いた。