英賀城 ( あがじょう) (岩繋城)
所在地 兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町2‐70 2014.5.1
英賀城 ( あがじょう) (岩繋城)
所在地 兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町2‐70 2014.5.1
英賀城野中口之碑
英賀城跡公園・石垣
英賀神社
英賀神社拝殿裏の土塁
英賀城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 東は水尾川、西は夢前(ゆめさき)川、南は播磨灘に囲まれた平地に築かれていた。
本丸のあった英賀神社(表記番地)本殿裏に残る土塁以外の遺構は住宅地などになって残っていない[マップコード24 182 361*14]。
北に隣接する英賀城跡公園に「野中口之碑」などの石碑・案内板・模擬石垣が造られている。
【歴史】 永享年間(1429~41年)初期、赤松祐尚によって築城され、戦国末期、赤松氏以降は三木氏に支配が移った。
天正五年(1577年)、織田信長は中国攻めを開始すると、羽柴秀吉に命じて播磨国へ侵攻した。
天正六年(1578年)から始まった三木城の戦いで、天正八年(1580年)一月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて二月十三日に陥落した。
通秋は子の安明ら一族と共に命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。
しかし、天正十年(1572年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住し、郷士頭となった。