布部城 (ふべじょう) (要害山城・布弁城・布部山城)
最寄地 島根県安来市広瀬町布部1158 2018.5.11
布部城 (ふべじょう) (要害山城・布弁城・布部山城)
最寄地 島根県安来市広瀬町布部1158 2018.5.11
登城ルート(緑線は車道)
布弁神社
南側の大堀切
2郭
主郭2郭間の堀切
主郭・説明板
布部城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 飯梨川左岸の標高183.8mの要害山に築かれ、2つの郭から構成されている。2ヶ所に大きな堀切よく残っている。
450年前に、この城と北方の布部山一帯で「布部山の戦い」の激戦が行われたが、現在は長閑で平和な田園風景が広がっている。
【案内】 国道432号線より飯梨川を渡って布部小学校西にある布弁神社(表記番地)に向かう。駐車場が用意されている[マップコード568 752 627*23]。
境内の東側から遊歩道があり、登ってゆくと大堀切があり右手に2郭がある。2郭左を回り込むように北に行くと、主郭との間に堀切がある。
主郭には愛宕神社、休憩所、説明板が建てられている。
【歴史】 元亀元年(1570年)尼子氏の武将森脇市正久仍(ひさより)が兵300と共に守っていたが、毛利輝元の大軍の前に退去し、水谷口の立原久綱、山中幸盛軍と合流した。
毛利軍は布部城に入り、布部城東に展開した。一方尼子勝久の率いる武将山中鹿介幸盛七千の兵は北方の布部山に布陣した。
二月十四日、毛利輝元率いる1万4千の将兵と尼子勝久の率いる武将山中鹿介幸盛七千の兵が激突した。
初め尼子方が優勢であったが、布部山の背後を突かれ次第に劣勢となり尼子方は3百の死者を出し、富田城奪還の夢かなわず総退却、山中幸盛と立原久綱は末次城へ帰還した。その後真山城へ移った。