勝本城 (かつもとじょう) (風本城・武末城・雨瀬包城)(あませかねじょう) (国の史跡)
所在地 長崎県壱岐市勝本町坂本蝕 2014.5.3
勝本城 (かつもとじょう) (風本城・武末城・雨瀬包城)(あませかねじょう) (国の史跡)
所在地 長崎県壱岐市勝本町坂本蝕 2014.5.3
登城ルート
北西石垣
稲荷神社鳥居・上段石垣
腰郭
本丸跡・稲荷神社
勝本港
勝本城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道382号線横に駐車場が用意されている[マップコード409 638 367*15](地図)。
そこより西に50m行き三叉路を右に登ると、標高82mの城山を取り囲む形に外周道路があり、城跡北西側の二段の石垣は良く残り、鳥居のある石段から本丸に登る。
本丸の北に稲荷神社が祀られ殊丸慰霊碑や河合曽良の句碑「春にわれ乞食やめても筑紫かな」が建てられている。
本丸曲輪に土塁も確認できる。勝本港を望む城山の山頂部に本丸跡の石垣や礎石群が残されており、城山公園として整備されている。
城山稲荷神社が鎮座しており、本丸跡からは勝本小学校の先に勝本港、若宮島、辰の島、名烏島などの絶景が見える。
一段下がった南側に平成二十二年、曽良翁(1649年諏訪に生れ、1710年壱岐で客死)を偲んで諏訪市より壱岐市に送られた御柱が建てられている。
また東の国道382号線に面した(曽良の墓)駐車場より北に50mほど行った能満寺墓地の北東入口近くに、蕉門の十哲の一人河合曽良の墓がある(地図)。
平成十四年(2002年)3月19日、国の史跡に指定された。
【歴史】 豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して本陣の名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐と対馬(清水山城、結石山城、撃方城)に兵站基地となる城を築くことを命じた。
壱岐においては島の領主である松浦鎮信が主に築城にあたり、有馬晴信・大村善前・五島純玄の助けを受けて、天正十九年(1591年)夏から工期約四ヶ月というごく短期間に築かれ、文禄・慶長の役を通じ利用された。
慶長三年(1598年)八月に秀吉が没し、朝鮮から撤兵した後、建物は取り壊された。