妙見岳城 (みょうけんだけじょう)
最寄地 大分県宇佐市院内町香下662 2015.5.13
妙見岳城 (みょうけんだけじょう)
最寄地 大分県宇佐市院内町香下662 2015.5.13
登城ルート
登り口・標柱
射場越し
手洗石・郭
主郭
芝矢倉跡・石垣
東側の階段状郭
妙見岳城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高340m】
【案内・感想】 国道387号線に面した表記番地南より、西に1.2㎞行った「香下ダム湖」の西端付近に登山口がある[マップコード145 203 702*10](地図)。
沢に沿った荒れた道を800m行くと「射場越し」という鞍部に着き、東に400m行くと「手洗石」の郭があり、西斜面に竪堀が残っている。
南東に約50m登ると、馬場跡があり、さらに約200m登ると階段状郭を経て標高444m比高約340mの妙見岳頂上主郭に至る。
主郭の広さは50m四方ほどあり、南側に「芝矢倉」と呼ばれる石垣の台地がある。天文十三年(1544年)に大雨で破損した芝矢倉を51人の人夫で修理した記録があり、かなりの高さがあったと思われる。東側に下ると、3つの郭が階段状にあり、人工的な石が散乱している。
【歴史】 天慶三年(940年)伊予国日振島の藤原純友は妙見山に極楽寺城を築いた。
建久六年(1195年)宇都宮信房が豊前国主となると、大薗氏に妙見岳城を守らせた。
南北朝時代の建武三年(1336年)宇都宮久綱は子・親綱に城を守らせた。文中三年(1374年)豊前国守護となった大内義弘は杉氏を城将として守らせた。
戦国時代に入ると豊前に勢力を伸ばしてきた大友氏と大内氏の間で争奪戦が繰り返された。
明応八年(1499年)大内氏方の郡代佐田泰景は宇佐郡衆と妙見山に在城して大友親治軍と攻防の末、人質として捕虜となり大友氏の手に落ちた。翌明応九年(1500年)一月十日、佐田泰景は府内より脱出し、一月二十九日大内氏方の杉氏及び宇佐郡衆は妙見岳城を奪還した。
永正元年(1504年)妙見城代は杉勘左衛門、城番は橋津四郎が務め100名で守った。天文元年(1532年)十月十日、佐田朝景は手兵100人を率い杉秀連、宇佐郡衆と共に妙見城を守った。大友軍は玖珠郡の将士・恵良四郎左衛門盛種を中心に妙見城を包囲し、攻防3ヶ月に及んだ。
天文十一年(1542年)赤尾賢種・元重氏が城番となった。 天文十二年(1543年)萩原土佐守が城番となった。
天文二十年(1551年)杉氏が撤退し城井房統が城代となった。香志田氏は房統を急襲し、城に入った。
大内氏が滅び、豊前国が大友氏の支配下となった弘治二年(1556年)重臣の田原紹忍(親賢)が当城に入り、毛利氏・高橋氏・秋月氏らの勢力に対する豊前国の前線基地の一つとなった。
天正十年(1582年)十月十二日、紹忍は安心院麟生と千代松丸を招待し帰途謀殺した。翌、天正十一年大友宗麟の三子・田原親盛が妙見城代となった。
また島津氏との豊薩合戦の際には大友方の最後の拠点となり、府内を追われた宗麟の長子大友吉統(よしむね・義統)が最終的に逃げ込んだのも妙見城である。
このとき22代当主大友吉統が府内で大した抵抗もせずに、妙見嶽城まで逃げてきたことは秀吉の心証を悪化させ、ひいては後の大友氏改易の遠因ともなっている。『両川地区保存会妙見山史誌』より。