中城城 (なかぐすくじょう) (世界文化遺産・国の史跡)(日本100名城99)
所在地 沖縄県北中城村大城503 2013.6.5
中城城 (なかぐすくじょう) (世界文化遺産・国の史跡)(日本100名城99)
所在地 沖縄県北中城村大城503 2013.6.5
三の郭北東城壁
三の郭の門
三の郭
二の郭北東城壁
二の郭・一の郭北東城壁
一の郭
一の郭北側城壁
中城城 一の郭跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 県道146号の普天間自動車学校の南西、道路反対側に駐車場がある[マップコード33 411 739*30](地図)。
「中城城跡共同管理協議会」(表記番地)で観覧券((大人400円・中高校生300円・小学生200円))を求め標高167mの丘陵に西南西に延びる城跡に登る。
東西600m南北100mの敷地を持つ、連郭式の山城である。六つの郭で(東より三の郭、二の郭、一の郭、西の郭、北の郭、南の郭)構成されている。
城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、石垣には野面積(南の郭)、布積み(豆腐積み、一の郭、二の郭)、相方積み(亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台)が見られる。巾2~4mの城壁の石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。
昭和四十七年(1972年)5月15日、国の史跡に指定された。
平成十二年(2000年)11月に首里城跡など共に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(99番)に選定された。 重要文化財である中村家住宅(北中城村大城106)も近くにある。
【歴史】 築城時期などはっきりしないが、十四世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷村の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成した。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害し滅びた。
その後、「中城王子の居城」として続いたが、1609年に島津忠恒に侵攻されて降伏し、翌1610年、尚寧王は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。
途上の駿府で家康に、八月二十八日に江戸城にて秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負った。
中城城には番所が置かれ、王府及び地頭への貢租上納や地方行政全般にわたって執り行い、首里との人馬網の拠点としても用いられた。
明治四年(1871年)廃藩置県後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
昭和二十年(1945年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。