木牟礼城 (きのむれじょう) (市の史跡)
所在地 鹿児島県出水市高尾野町江内191 2018.12.11
木牟礼城 (きのむれじょう) (市の史跡)
所在地 鹿児島県出水市高尾野町江内191 2018.12.11
城跡・堀跡の水田
城址碑
説明板
東側の水田
木牟礼城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 出水市高尾野町にあり、薩摩街道(国道3号線)を押さえる要衝に築かれた平城である。
櫓台のような台地の周囲に郭があり、その周りに堀を巡らせていたと思われる。
【案内】 国道3号線「屋地」交差点の西約200mより右折してゆくと、「木牟礼城跡」の看板がある台地が見える[マップコード226 272 245*51]。
周囲に田圃となっている堀跡があり、説明板、城址碑が建てられている。表記番地の民家も城跡内と思われる。
出水市の史跡となっている。
【歴史】 『三国名勝図絵』『鹿児島県地理纂考』によれば、文治二年(1186年)島津家初代忠久が、薩摩・大隅・日向の地頭に任じられると、家臣の本田貞親を派遣し、この地方の動向を探らせた後、建久七年(1196年)この地に築城した。以後、5代貞久まで領国支配の拠点となった。
その後、貞久は所領を2子に分与し、惣領の師久に薩摩国の守護職(総州家)、弟の氏久に大隅国の守護職(奥州家)を与えた。
師久は川内の碇山城に新たな守護所を設け、旧守護所の木牟礼城には貞久が残ったと云われている。
貞久の時代には、南朝と北朝の争いが木牟礼城と尾崎城を舞台に行われた。
南北朝の動乱が収まると、総州家と奥州家の勢力争いが起き、総州家が奥州家に滅ぼされると、木牟礼城もその存在価値を失い廃城となった。『出水市教育委員会説明板』より。