日野江城 (ひのえじょう) (日之江城) (国の史跡)
最寄地 長崎県南島原市北有馬町戊2465 2014.9.4
日野江城 (ひのえじょう) (日之江城) (国の史跡)
最寄地 長崎県南島原市北有馬町戊2465 2014.9.4
大手口
大手石段
大手石垣
本丸跡・城跡碑
本丸南側石垣
二の丸跡・説明板
日野江城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【感想】 有馬川河口付近の小高い丘にあり、南には有馬川が流れ、東には大手川が流れている。
縄張りは中央の丘頂部に本丸が置かれ北西に三の丸、南東に二の丸を配した連郭式平山城である。空堀や石垣がよく残っている。
【案内】 県道30号線より大手川の西の道を約300m行くと、駐車場がある[マップコード173 255 658*10](地図)。大手を登ると発掘調査中のため屋根掛けされた石段があり、二段の曲輪があり石垣が残っている。
そこから二の丸跡には閉鎖されているため、搦め手(浦口)[マップコード173 255 665*40](地図)より細い道を約450m行くと三の丸曲輪があり、登ると本丸跡である。
標高70m余の本丸跡には「史跡日野江城跡」(昭和五十二年製)の石碑があり、「日野江城跡」(昭和四十七年製)石碑がある。また寛文七年十二月建立の「役小角祠」通称八天様と呼ばれる石祠に二体の像が祀られている。
南に一段下がって日野江神社のある帯曲輪、更に下がって、広い二の丸曲輪があり大手門跡に続いている。空堀があり、石垣は良く残っている。
昭和五十七年(1982年)7月3日、国の史跡に指定された。
【発掘調査】 平成七年(1995年)より平成十二年(2000年)までの間に四次にわたる発掘調査が行われた。この際に、他には安土城にしか見られない直線階段や、海外の技術を取り入れた石組み、金箔を施した瓦などが出土した。島原の乱のあと入植した人々により、城跡は果樹園や畑として使われた。
【歴史】 鎌倉時代前期の建保年間(1213年~19年)に高来郡を領する藤原経澄が築城したと伝えられている。
経澄は藤原北家で藤原純友の子孫(もしくは平氏)で築城時に有間を称し、後に有馬と改称した。有馬氏は当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかった。
貴純の時代になると半島内の諸勢力を制圧し戦国大名へと成長していった。貴純は日野江城の支城として原城を築城している。晴純の時代に有馬氏の版図は最大となり21万石を領するまでに成長した。
しかし、後ろ盾となっていた大内氏が滅亡すると龍造寺氏の圧迫を受けるようになった。
13代目当主の晴信はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。平成の発掘調査で出土した遺構は晴信の時代のものである。
江戸時代初期に、晴信は四万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。しかし、慶長十七年(1612年)晴信は岡本大八事件に連座した罪により甲斐国で切腹となった。
嫡男直純が後嗣となったが、慶長十九年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる在城に別れを告げた。
有馬氏のあと元和二年(1616年)に大和二見城主松倉重政が入城するまでの間は天領となった。
この間は鍋島氏、大村氏、松浦氏の肥前の諸大名が分担して城を警固した。
松倉氏は入封後、日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し寛永元年(1624年)島原城が完成し、移転し、日野江城は廃城となった。