天霧城 (あまぎりじょう) (雨霧城) (国の史跡)
最寄地 香川県三豊市三野町大見甲6059 2014.5.16
天霧城 (あまぎりじょう) (雨霧城) (国の史跡)
最寄地 香川県三豊市三野町大見甲6059 2014.5.16
登城ルート
遠景
護摩堂(右へ)
湧水井戸
三の丸跡
二の丸跡
本丸跡(物見台)
天霧城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高180m(弥谷寺より)】
【案内・感想】 善通寺市と多度津町の境にある標高382mの天霧山頂上にある。四国71番札所弥谷寺駐車場が利用できる[マップコード77 492 815*58]。
石段の途中に俳句茶屋(表記番地)がある。更に石段を登った護摩堂に行き、護摩堂より東に比高約180m、行程約1600mの天霧山頂上への登山道が続いている(地図)。
800mほど行くと白方方面(へんろ道)の登山道と合流する。(北の径は多度津町奥白方の南の砂防ダム脇の登山道につながっているが草が茂って荒れている)。
そこより250m東に「隠砦跡」がある。やがて分岐となり「犬返しの険」と呼ばれる急斜面からは本丸に出るが、緩やかな径を東に登る。
頂上の北の下に「湧水井戸」があり、そこより頂上までは急な斜面となっており、三の丸跡に着く。東に空堀があり、南西に二の丸跡、本丸跡と並んでいる。天霧山の南東側は採石によって大きく抉られており、遺構の一部が失われている。
平成二年(1990年)5月16日、国の史跡に指定された。
【歴史】 古くは大宝二年(702年)、白方軍団の要城がおかれたという(『三豊郡史』)。
1364年(南朝正平十九年・北朝貞治三年)、讃岐守護・細川氏に従って相模国より讃岐に入部した香川景則 は、多度津の本台山(現在の桃陵公園)に居館:多度津城を構えた。
その後、香川景則は讃岐西方守護代に任ぜられ詰の天霧城を築城した。
以後、香川氏は細川京兆家内衆として、細川氏に従い畿内で活躍しつつ西讃岐を支配した。
天文十八年(1549年)、主家細川氏が三好長慶に敗れ、天文二十二年(1553年)、隣国阿波の守護・細川持隆が三好長慶の次弟・三好義賢(実休)に暗殺されると、細川京兆家は没落し代わって三好氏が実権を握った。
三好氏の勢力は讃岐にも及んだが、香川之景はこれに従わなかった。
永禄元年(1558年)九月、三好実休が東讃岐の諸将とともに天霧城に攻め込むが、之景はこれを撃退(善通寺合戦)した。
之景は実休と和議を結び、所領安堵のうえ三好氏の支配下に入ることとなった。このとき之景は天霧城から退去し、のちに毛利氏の支援で天霧城に復帰したとする異説もある。
織田信長が上洛して中央に政権を樹立すると、天正四年(1576年)、之景は織田氏に通じ信長より一字を貰い「信景」と名乗った。
天正七年(1579年)、土佐の長宗我部元親が讃岐に侵入すると、香川信景はそれに屈し、元親の次男・親和(親政とも)を養子に迎え入れ家督を譲った。以後、信景・親和父子は長宗我部氏の讃岐攻略に尽力し、天霧城はその拠点の一つとなった。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に伴い、香川家は取り潰しとなり、信景は土佐に移り天霧城は廃城となった。