昼寝城 (ひるねじょう)
最寄地 香川県さぬき市前山936 2014.5.16
昼寝城 (ひるねじょう)
最寄地 香川県さぬき市前山936 2014.5.16
説明板
登城ルート
説明板・登り口
西曲輪
西曲輪・寒川社
東曲輪・土塁
昼寝城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【案内・感想】 道の駅「前山おへんろ交流サロン」(表記番地)より県道3号線を東へ約1㎞行った分岐地点より、東に道を南下し、多和神社横を経て約2.0㎞南東に行く。林道矢筈太郎兵衛線を約500m行った地点に、「昼寝城入り口」があり、「昼寝城」の説明看板が建てられている[マップコード60 143 270*57](地図)。
そこより登山道を南西に400mほど登った標高460m比高約150mの「昼寝山」頂上に昼寝城があり、鴨部川上流の南側にある矢筈山の中腹に位置する。
昼寝山の山頂平坦地は2ヶ所あり、西方は100㎡あり、東方は200㎡ある。西方の隅には「寒川社」と呼ばれる宮があり、付近の山々が展望できる。東方の南端に土塁とみられる遺構が存在する。
また二つの曲輪を幅員約2mの道で結ばれており馬場跡と伝えられている。
【歴史】 嘉吉年間(1441~44年)に築城され、築城主は香川光治と伝わる。
南北朝時代から室町時代にかけて、東讃岐に勢力を誇っていた寒川氏は仁明天皇(833~850年)の頃に讃岐朝臣の姓を賜り、代々寒川郡の郡司であったために寒川氏と称するようになった。
室町時代になると長尾荘の地頭に就任し、細川氏の被官となり大内郡・寒川郡と小豆島を領し、昼寝城、引田城、虎丸城を築いた。
大永三年(1523年)、寒川郡内の境界争いに端を発する塩ノ木合戦が起きた。合戦において、雨滝城主・安富盛方が寒川元政の所領の城を攻撃し、寒川氏は塩ノ木で安富氏を追撃した。
大永六年(1526年)、大内氏に属する寒川氏と三好氏に属する十河(そごう)氏の紛争が起こり、十河氏に加勢する三好氏は昼寝城・池内城を攻撃しようとしたが、寒川氏は先に二本杉を攻め、十河氏・三好氏を敗走させた。
十河一存(そごうかずまさ)は仇討ちのために寒川元政と戦ったが細川晴元が和睦を命じた。
しかし安富盛方は晴元の命に従わず、寒川氏を攻め、池内城を奪った。寒川氏は昼寝城に退き兵糧攻めにあったが落城せず、安富氏は退却した。
天正十年(1582年)八月、長宗我部氏の岩田雲長に率いられた部隊は石田・長尾に侵攻した。
石田の小十九間城・城主細川則弘は野崎時安らを召集し、岩田雲長を大将とする長宗我部軍は昼寝城・常憐城を攻撃した。
細川則弘は蓮田池で迎え撃ち、岩田雲長・一宮平四郎を討ち取った。